おばんです、シードルです。
昨日は『どんど焼き』ついでにおみくじを引いた私ですが、今回はその『運』について自分なりの解釈を述べようと思います。
『どんど焼き』についての記事はこちら▼から行くことができます。
神社巡り、お寺参拝、パワースポット…………御朱印ブームも後押ししてか、開運に対する意識が近頃高まっていますね。
参拝方法から順序、お賽銭の金額や方位……挙げればキリがないくらい様々なやり方が伝えられています。
けれども、著名な神社に行ったのに「全然御利益がない!」「効果が実感しない」さらには「むしろ悪くなっている気がする……」という人もしばしば。
そういう場合、開運関係の書籍や番組では『間違った参拝方法』『タブー』『そうやると効果がない』という話しが出回っています。
確かにそれもあるかもしれません。
神様と交信できたり、見えないモノが見える人は何かが見えているのかもしれません。
ただ、何の能力もなくただの神社仏閣好きの私の凡庸な考えですが『運の認識がそもそも違うのでは?』と時々思うのです。
幸せになるには運が良いのが必須………そう揶揄されていますが、そもそも運が良いから幸せなのか、はたまた幸せだから運が良いのか?
逆に運が良くないから幸せじゃないのか? 幸せになるには運が良くなければならないのか?
いずれも違いますよね?
大変な思いをしたから今が幸せだったり……何気ない日々が幸せだったり……幸せとはいかなくても病気やケガ、事故がなく運が良かったり……そういうことはありますよね?
卵が先か鶏が先か、みたいな問題ですが……もし、幸せと運…どちらか一つと言ったら、皆さんはどちらを取りますか?
私だったら『幸せ』を取ります。
なぜなら私が思うに運が良い、というのは『自分にとって最適な状況を作る倍率を上げる現象』なんじゃないかな、と思っているからです。
例えば、空から落ちてくる雪を手にする、というのを幸せとしましょう。
俗にいう運がない人というのは空に雪雲がなく晴天の状態だったり、風が強くて空から落ちる雪を掴めない状態です。
逆に運が悪い人というのは天気は雪雲のある曇天なのに、自分のところに雪が降ってこなかったり、移動する度に先ほどまでいた場所に雪が降ったりするという状態。
この場合、運が良い人というのは自分のところに手に取りやすい牡丹雪がゆっくりと落ちてくる状態をいいます。
こう述べると「そりゃそうだろ」という感じになりますが、これをさらに細かく分析してみてください。
ただ何も考えず外に出たらちょうど雪が落ちてきて自分の手に乗った……これは強運にあたります。
ですが、落ちてくる雪を手にするのが幸せだとしたら皆さんはどうするでしょうか?
まず雪が降りそうな地域、時間を天気予報で調べますよね? そして、その場所へ行く……それが一般の人の考えです。
知識や経験がある人はさらにそこから温度や風向き……あるいは低気圧や週間天気予報までチェックしたり、より雪が降りやすい山の方に行ったりするでしょう。
そうすれば地域や時間だけ調べた人よりもより確実かつ早く空から落ちてくる雪を手にしやすくなります。
つまり、運というのは自分の経験や知識を磨き、その目的に伴う労力を駆使することでその発生倍率を上げることができます。
付け加えるとしたら倍率を上げるだけでなく、掴みとる力と維持する力も必要です。
その点で考えれば猛吹雪の中でも雪を掴めたり、晴天の中で僅かに降った雪を掴める人というのは運にも勝る天賦の才……すなわち才能を持っているといえます。
取りやすい大量の牡丹雪という幸せが降ったとしてもそれを手に出来なかったら意味はないですし、素手で掴んだとしてもすぐに消えてしまっては意味がありません。
これを現実の例で表すなら宝くじの当選や玉の輿でしょう。
大金を手にしても浪費してしまうと無くなるばかりか、自身が不幸になってしまいますし……素敵なダンナさんと結婚しても自身が努力せず尊大な態度でいれば、いずれ離れてしまうのと同じです。
すなわち、運とはそこかしこに転がっていたり、発生していたりするのでそれを見つけて掴み取る力とともに維持することが必要ということになります。
ただ、これはあくまで運からの幸せに繋がる例……逆に落ちてくる雪という幸せが手に出来なくとも「あぁ、今日は晴天で気持ちが良いな」とか「猛吹雪だけどこれを乗り越えたら俺は一段と成長できる!」と別な幸せを見つけることができたりします。
むしろ、知識や経験、掴んだり維持したりする力が必要ないぶん……こう考えた方が楽ですし、得……最強の人ともいえます。
こう考えると運が良い=幸せとは限りませんよね?
皆さんは幸せになりたいですか? 運が良くなりたいですか?
知識や経験を積むのか、才能を磨くか、考えを変えるか……多彩な手段から自分に合うものを見つけ、幸せを手にしましょう!