前回のあらすじ……

大分から長崎へと移動し旅を続ける私シードル。
黄檗宗のお寺を巡り、長崎の諏訪神社を参拝し、グラバー園や中華街を訪れ、異国情緒を堪能。
しかし、お寺はあれど御朱印を行っている所は見当たらず……。
果たして、長崎のお寺の御朱印を手に入れることはできるのだろうか?
かつての惨劇が起こった場所へ
平和公園
5/1日、朝8時……前日遅くまで長崎にあるお寺を調べ、久しぶりに夜更かしをしましたが、思ったよりも早く起床したため、街中を歩き、市電に乗りながらある場所へ。
なんというか、仕事がある日はいつまで経っても眠いのに休みやこういう時に限って早く目が覚めてしまうんですよね……ストレスでしょうか?
本当はお寺の開門時間である9~10時頃ならちょうど良かったのですが……幸いにも時間関係なく訪れることができる場所があったので、そちらへ向かうこととします。
その場所とはこちら……

長崎にある『平和公園』……ここは誰もが知るあの戦禍、原爆投下地の北側にある公園です。
上には階段で行くこともできますが、エスカレーターが設置されているので階段に不安がある方でも訪れることができます。

エスカレーターを上がってすぐあるのが『平和の泉』
原爆により体内まで焼けただれた被爆者たちは水を求め、うめき叫びながら亡くなっていきました。その方々の霊魂に水を捧げて冥福を祈り、世界恒久平和と核兵器廃絶の願いが込めて建設されたのがこの泉です。
中央の石碑には被爆し、水を求めてさまよった少女の手記を刻まれており、当時の惨状を想起させます。
この文章を見た時、心が締め付けられるような感覚が襲い、すぐに動けずに立ちすくんでしまいました……天災、人災、戦災と数ある災害ですが、戦災だけは本当にもう二度と起こってほしくないです。

平和公園は昭和20年(1945年)8月9日に投下された原子爆弾落下中心地(爆心地)と、その北側の丘の上とを含めた地域に平和を祈って設けられました。
現在もまだ被害は続いており、今なお人々の心身に深い爪痕を残しています。
そんな凄惨な現場と化したかつての場所は緑が生え、綺麗に整備され……多くの人々が訪れる地に。

こちらは平和への願いを込められた『平和祈念像』
長崎出身の彫刻家の方が作成し、この像には神の愛と仏の慈悲を象徴し、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いが込められているそうです。
被害に遭われた方々の魂が安らぎますよう……。

像の前で手を合わせていると近くに一羽のハトがやってきました。
他の場所にいるのは普通のハトだったのですが、このハトだけはほとんど白……白いハトは平和への象徴。
不思議な縁に巡り合いました。

原爆落下地点周辺
平和公園を下り、今度は原爆落下の中心地へ……。
その落下地点には『原爆落下中心碑』……『グラウンド・ゼロ』があります。
この地点の上空500メートルで原爆が炸裂し、一瞬で約73,800人の尊い命を奪うだけでなく、約76,700人の負傷者を出す未曾有の災害を引き起こしました。

そんな場所の近くにある焼け焦げたレンガ造りの塔……こちらは『旧浦上天主堂の遺壁』
大正14年(1925年)、30年もの年月を要して創建されたロマネスク様式の大聖堂『旧浦上天主堂』はその20年後……核の炎と爆風により見るも無残な姿へと変貌してしまいました。
これはその聖堂の南側の一部……1958年にここに移築され、当時の惨劇を今に伝えています。

落下地点の近くには当時の地層がそのまま保存されており、ガラスケース越しに見学することができます。
埋没した大量の瓦やレンガ、焼けた土や溶けたガラスなどを見る限り、相当強い威力であったことが分かります。
こんなものを人が受けたと思うと……ゾッとしてしまいます。

周囲には平和を祈って作られたモニュメントの数々が……争いは悲劇しか生まない……戦争を経験していないので説得力はありませんが、平和を末永く続けるにも、このような歴史を伝えるのが今を生きる我々の責務といえるでしょう。

四福目のお寺
朝早々に少ししんみりしてしまいましたが、ようやくお寺の開門時間となったので、長崎寺社参拝開始です。
トップバッターで訪れるのは『聖福寺(しょうふくじ)』というお寺。
こちらも黄檗宗で山号は万寿山。

創建は延宝5年(1677年)……隠元の孫弟子に当たる鉄心道胖を開山としています。
前日で触れた長崎三福寺の目付寺とするため、含まれていませんが後に『福』の字が含まれていることから加えることで『四福寺』とも称されています。
造りはやや和風寄り。

境内は現在、老朽化による改修工事の最中とのことでごくごく一部のみ観覧することができました。
こちらは七福神で有名な布袋さん。
裕福そうな見た目と笑顔ですね。
ちなみに御本尊は釈迦牟尼仏坐像となっています。

聖福寺は当初、修復費用を捻出できず工事に着手できない状態が続いていたそうですが、2014年9月に長崎県指定有形文化財の建造物4棟(大雄宝殿・天王殿・鐘楼・山門)が国の重要文化財に指定されたことにより、国から最大で85%の工事費の補助を受けられるようになりました。
さらに長崎県や長崎市からの補助もあり、寺側の負担が6%ほどになったことから着工へと至ったとのこと……補助金の力って凄まじいんですね。
当寺は坂本龍馬が深く関わったとされる1867年(慶応3年)に起きた『いろは丸事件(日本初の蒸気船の事故であり海難審判事故)』における紀州藩と土佐藩の談判の舞台となった場所ということもあり、龍馬ファンや幕末の歴史好き達が訪れる聖地にもなっています。

聖福寺ではダメ元で御朱印を頼んでみたところ快く書いてくださいました。
改修工事で忙しい中、対応していただきありがとうございます。

原爆により焼失した最後の三福寺
御朱印を頂くことに成功はしましたが、せっかくなので三福寺最後のお寺である『福済寺』へ行って見ることに。
こちらのお寺は長崎市街からもかなり近い場所にあり、アクセスしやすいのが特徴です。

特徴的なのが大きな亀に乗った観音様。
こちらは『万国霊廟長崎観音』とも呼ばれています。
福済寺も黄檗宗で山号は分紫山。
信徒には福建省の中でも漳州と泉州出身の華僑が多いため、漳州寺や泉州寺と呼ばれているそうです。
ところで、唐寺といってもこちらのお寺は今まで訪れた福寺とは雰囲気がまるで違って新しいことにお気づきでしょうか?
実はこちらの本堂は第二次世界大戦以前には国宝に指定されるほどだったのですが、原爆投下地に近かったためか、焼失してしまいました。
以後、本堂の跡地には亀の形をした霊廟が建立され、中では原爆被災者と戦没者を弔っています。

そのため、撮影の方は外観のみで差し控えさせて頂きます。
ご了承ください。
中へと入り、お参りを済ませた私は長崎駅へと向かい、この地を出立……長崎では異国情緒の華やかさ、戦争による悲惨さを改めて知ることができた良い旅でした。
弥生時代のクニへタイムスリップ
長崎を旅立ち、列車に揺られ……今度はお隣にある佐賀へ。
宿に行くには少し早いので途中にある『吉野ヶ里公園駅』で下車し、ぶらりと周囲を散策します。

田んぼ……にしては時期が早いですよね。麦でしょうか?
一面に広がる緑の平野……故郷の紫波町や矢巾町の田園風景を思い出します。
ここ最近は都市色が濃い地域を巡っていたため、このような平野は久しぶり……というより懐かしい感覚です。

もう駅名で察しがついた方もいると思いますが、下車した目的は『吉野ヶ里歴史公園』へ行くこと。
岩手にも『御所野遺跡』はありますが、果たして一体どれほどのものなのか?

公園に入ってすぐに入り口があるかと思いきや、なんと思いのほか結構距離があります。
もうこの時点で御所野遺跡よりも遥に規模が大きいことが分かります。
まさか、入って早々に敗北感を与えるとは……。

ようやく入り口らしき歴史公園センターへ到着。
ここだけでもかなり広いのに係の人に聞くとここは東口で他に西口と北口があるのだとか。
一体どこまであるんだ……。
幸いにもコインロッカーはお金が返ってくる実質無料らしいので、荷物を置かせていただくことに……大荷物で園内を歩いたら倒れかねないですからね。ありがたいです。
料金は大人460円で中学生以下は無料……良心的です。

入り口の近くにある橋を渡り、いざ中へ……。
吉野ヶ里歴史公園は弥生時代を体感できる場であり、弥生時代最大規模の環壕集落が発掘された遺跡。
集落の周囲には背の高い柵と外敵を拒む木杭が飛び出ていて重々しい雰囲気です。
村や集落を守るためにも必要だったのでしょうね。


それでは始めにこちらのお宅へ訪問してみましょう。

中は一段下がって広く造られており、外観に似合わず開放感があります。
二本の柱で固定し、屋根が広がっている様は現代のポールテントに近い感じですね。

綿密に編み込まれ、縄で幾重にも縛って固定されています。
夏は涼しく、冬は煮炊きの暖が家全体に広がって暖かくなる仕組み。
風雨が強くとも壁が無いので、屋根を補強すれば板など貼らずとも家を守れるという無駄のない構造。
昔の人は本当に知恵に優れていますね。

屋根自体も地面からさほど高くないので、手入れも簡単。
一見すると完璧に見えるかもしれませんが、ネズミやヘビといった小動物が侵入しやすかったり、川などが氾濫し水が流れ込んでしまえば一巻の終わり……どんなものにも弱点はあります。
だから丘や高台などに建てたのでしょうね。


そんな小動物除け、湿気除けとして作られたのが地面から高く上げられた『高床式』
浮いている床の部分には上がってきたネズミを拒む『ネズミ返し』も設けられています。

この高床式は主に倉庫として使われ、食料や武器、交易品の保管がされていたようです。
通気性も良いので乾燥させるのにも便利。

集落を見た後、今度は北側ゲートに向かって進んで行きます。
この辺りには池や芝生、森などがあり集落のようなものはありませんね。

さしずめ多目的広場といったところでしょう。
ぐるっと回って戻ります。

吉野ヶ里歴史公園では今なお発掘作業が行われ、未開放エリアも存在しています。
そこでは首長を葬る『墳丘墓』やたくさんの『甕棺墓地』が見つかったりと新たな発見が継続して見つかっています。
いや~、ロマンですね。


弥生時代は集落からムラ、ムラからクニへと変わった時代……あの卑弥呼で有名な邪馬台国もこの頃と考えると時代が変わる節目だったんですね。

ついには他の建物を見下ろす高台まで……ひとつの時代で大きく発展していったんですね。


この頃の武器は槍や弓矢など狩猟で使われたものがそのまま使われていて、青銅の剣や特別に作られたものは祭具として使用されていました。
今でも神社の祭事で剣などが使われているのはこの頃の名残なのでしょうね。
日本における伝統文化を決定づけた時代でもあります。


小規模のクニからやがて広大な範囲を治める国へ……こうして変わっていったのでしょう。
これだけ見ても大満足な私は器が小さいのでしょうか?


弥生時代の後半にあたる家屋をお邪魔してみると室内に棚などが設けられており、最初に見た時よりも物が充実しているのがよく分かります。
貨幣といったお金がまだない時代はこういった物をいかに多く持っているかによってステータスが決まっていたのでしょう。
金持ちじゃなく物持ちということですね。
現代では逆に物を減らすミニマリストが流行していますが、弥生時代の人に現代の状況を見せたらどう思うのでしょう?

機を織ったり、いくつもの土器があったり……バラエティーに富んでいますね。


一番高い所から吉野ヶ里歴史公園を眺めます。
これだけ広ければ確かにクニと呼べるでしょう。
現代ではこの範囲を地区と呼びますが……それでも人を守り、繁栄していくとなると昔の時代では難しかったでしょうね。

九州はクマはおらず代わりにイノシシが多いイメージがあります。
今の時代でも獣によるニュースでわーわー言っているくらですから、自然が豊富だった弥生時代はより過酷だったことでしょう。

佐賀市内へ
吉野ヶ里歴史公園で古代を堪能した後は佐賀市にあるカプセルホテルへ。
しばらくビジネスホテルで過ごしたお陰か体調はもう万全。たまにはあの狭い空間が恋しくなるんですよ。
今回は佐賀で二泊を過ごします。
明日は佐賀の神社仏閣巡り……どんな出会いがあるか、楽しみを胸に休むのでした。
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