おばんです、シードルです。
本日は遠方から訪れた友人とともに盛岡を散策しました。
その中で友人の希望である岩手県立美術館へ。
常設展示目当てで訪れましたが、この日はあいにく展示品の入れ替えのため、見られないとのこと……。
その代わり、特別展示である平間至氏の企画展を拝見しました。
平間至氏はタワーレコードのキャンペーンをはじめ、1990年代から現在まで幾多のアーティストを撮り続けた写真家。
この企画展では、学生時代の作品やCD、雑誌のために撮り下ろしたアーティスト写真、ダンサー・田中泯を追い続けたシリーズ、故郷の宮城県塩竈市の写真館、家族、自らの日常風景を辿ったものや、東日本大震災後に撮影した内省的な心象風景などの約300点以上を展示していました。
本氏の過去最大規模の個展とのことでタイミングは色々と良かったかもしれません。
中は使っていた機材やメモといった手記まで多彩にあり、様々な芸術家としての一端を垣間見ることができました。
その中で個人的に強烈に残ったのが、手記の展示の中にあった一文……。
『不自由の中の自由』
どちらも対極を成す正反対の言葉……けれど、どこかしっくりくる感じがしました。
そして、どこか現代社会に通ずるかのよう……。
思えば、法律や規制、TPOや大衆の目など我々は無意識に他者を監視し、監視されているような日々を送っています。
実際のところでは人間というのは、有名人でもない無名の赤の他人においてはほとんど気にも留めず無関心なのですが……これがSNSやネット上ともなると珍しいことに匿名の誰かの発言を信じたり、誹謗中傷を行っています。
そして、行っている側もまた匿名……顔も名前、それどころか声すら聞いたことのない他人と議論するわけです。
なかなかに不思議ですね……これも一種の監視社会という不自由の中にある言論という自由なのでしょうか?
逆にこの言葉……『自由の中の不自由』ともいえます。
法という秩序の下、我々は規律を守っていれば自由を許されています。
ですが、規律を守っているにも関わらず、守ってもらえなかったり、危害を加えられたり、時には命を失う事案だってあります。
自然界に生きる動物たちは本能の赴くままに生きて自由ですが、時に食べたり食べられたり……弱肉強食の世界です。
けれども、それは法という理性のない本能の世界の話し。
人間は理性が他の生物においてより発達し、一線を課す存在というなら……なぜ、理性を基準に法という秩序の世界にいるのも関わらず、欲や本能の赴くままに弱者をいたぶるのか。
自由の中でも結局は財力、権力、名声といった『力』による不自由を受けている……とどのつまり、行き着くのは同じなのかもしれません。
恐らく、芸術家視点ではこのようなネガティブなものではなく『世間という不自由の中で己を出す自由』ということなのかもしれませんが…………様々な考えや思いを巡らせることができるのが美術館の良いところですね。
その後においては書店を巡ったりした後、友人とは別れましたが……なかなかいい時を過ごすことができました。
皆さんも思いを巡らせに行きたい時は美術館に足を運ぶのも良いかもしれません。