昨今は神社ブーム、パワースポットブームが到来し、平成の頃に比べると多くの方々が神社参拝に赴いている姿を目にします。
神社好きから見ると、とても嬉しく思う反面……未だ御朱印やその神社限定のお守りを主として人気も少なく、社務所に神職の方が常駐していない神社はスルーされることがあり、少し寂しくも感じます。
御朱印やお守りがないからといって行かない、というのはとてももったいないからです。
そこで今回は普段あまり人はいないものの、素晴らしい方を祀っている神社をご紹介しようと思います。
盛岡を荒地から美田の地へ変えた治水の神
概要
その神社は盛岡市街地から『御所湖』方面に向かう途中の山沿いにあり『太田スポーツセンター』の隣に鎮座しています。
名を『鹿妻(かづま)神社』といい、鹿妻とはこの辺り一帯の地域のことです。
一見するとどこの地域でも一つはある何の変哲もない神社ですが、ここには鎌(釜)津田甚六という人物が祀られています。
鎌津田氏は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した鉱山師であり治水家です。
そんな氏は慶長年間(1596~1615年)に盛岡藩の大事業であった鹿妻穴堰の開削を成功させたことで知られています。
由緒は以下の通りです。
引用元:岩手県神道青年会公式サイト
往古、釜津田甚六が、太田村宰郷山(現在は盛岡市)剣長根の東南に拡がる万頃の美田は、一度洪水を見れば一瞬に荒野と化するを悟り、これを救う道は、その中央に疎水するに如かずとして幾多の困難を克服し、先ず水神罔象女神を祀り岩石通水の工事を起すが岩石硬度で、再三工事を繰り返すが、ただ偏に神霊の加護を祈念し、遂に寛文12年(1672)5月、難工事を完了させた。
由緒は一部難解な言い回しが見られるので、ウィキペディアや様々な資料からところどころ掻い摘んで私なりに改めてご紹介します。
慶長4年(1599年)の盛岡城の築城の際……鎌津田氏は盛岡藩の藩祖・南部信直から鹿妻、太田地域を水田に変えるための『鹿妻穴堰』の開削を命じました。
当時、鹿妻・大田地域一帯は北上川よりも25センチほど高い平坦地にあり、北上川からの取水が困難な状況にありました。
また、地域の近くには雫石川もありましたが、この川は暴れ川として有名でひとたび洪水が起こってしまうと瞬時に荒れ地へと変えてしまうため、通常の取水は困難……さらに追い打ちをかけるようにこの時代は『やませ』などの冷害により作物も育ちにくいという、とてもハードモードな状態だったわけです。
土地はあるが、水害と冷害で難しい。けれど、この問題を解決すれば著しく発展できる……そんな考えからでした。
そこで鎌津田氏はまず調査を行い、雫石川に突き出た剣長根の岩山に穴を掘り、トンネルの水路を作って疎水することに決めました。
こうすることで、暴れ川である雫石川から直接取水するというリスクを回避することができ、豊富な水を引くことができます。
しかし、この岩山の岩石はかなり硬度で掘削工事は幾度も難航しました。
難解な工事のため藩にも止められるかと思いましたが、その時ちょうど付近を歓進坊である陸坊が「鉱脈がある」と言いふらしていたため、鎌津田氏はこれを利用し開田と金の採鉱を兼ねての工事を藩に提議して、そのまま計画を進めました。
後に明治2年に藩が新政府に提出した「御領中諸鉱山取調帳」にも金・銀山と記され、自然金が鉱脈として発見されました。
そんな計画を水神である罔象女神(みずはのめのかみ)にも祈りながら……また鉱山師の技術を駆使しながら工事を行いました。
そうして、寛文12年(1672年)の5月……長さ11メートル、幅2メートルのトンネルが開通し『鹿妻穴堰』が完成しました。
現在でもこの堰は使われ、美しい田園と農作物を育むのに使われています。
不可能を可能にした人の執念が生み出した結晶といえるでしょう。
御祭神・御利益
祀られている神様については以下の表に簡単にまとめてみました。
御祭神 | 御利益 |
罔象女神〔みずはのめのかみ〕 | 水(灌漑・井戸・治水)の神 対象:祈雨、止雨、治水、農耕、商売、子宝、安産 |
釜津田甚六神魂〔かまつたじんろくのかみのみたま〕 | 鉱山と治水の神 対象:治水、開拓、技芸、一願成就 |
トータルで見た場合は『治水』に関するご利益はありそうです。
罔象女神は古事記にも名前があり、こちらでは『弥都波能売神』と記述されています。
イザナミが火の神、カグツチを産んだ後の尿から生まれた神とされ、主に井戸や灌漑といった水の分野を司っていました。
それゆえ、罔象女神も龍神とされているようです。
釜津田甚六神魂は鎌津田甚六の神名です。
この方の場合は徳川家康の『東照大権現』のような感じです。
御利益に関しての謂われは残念ながら分からず、私なりの解釈ですが、困難を打ち破り繁栄をもたらすご利益は確実にあると思われます。
アクセス
そんな鹿妻神社は盛岡市街から御所湖に向かう途中の『太田スポーツセンター』の隣……山側に鎮座しています。
近くには鹿妻穴堰の頭首工もありますので、散歩がてら見に行くこともできます。
ちなみにですが、御所湖方面といっても『小岩井農場』に入る盛岡横手線(国道46号線)の方ではなく、『つなぎ温泉』に行く盛岡鶯宿線(県道172号線)の方なのでご注意ください。
交通手段としては主に自家用車がメインとなりますが『太田テニスコート』前までバス停があるので、そこまでバスで行き、徒歩で向かうことも可能です。
駐車場は神社前に狭いスペースながらも停めることができます。
探勝レポート
それではさっそく探勝といきましょう!
今回は鹿妻神社前にある駐車場からスタートです。
駐車場は鳥居のすぐ隣にあり、4~5台ほどなら余裕で停められます。
こちらが神社の入り口……すぐにでも入りたいところではありますが、まずはその周囲を探索しましょう。
入り口の右手にある大岩……特に謂れなどは記していませんでしたが、かなりの大きさです。
元からあったものなのか、それとも堀削時に見つけてこちらに移したのか……詳細は定かではありませんが、なんとなく気になりました。
鳥居から少し左にずれた先には立派な記念碑があります。
開墾400年……さらりと記載されていますが、鹿妻穴堰の歴史がいかに古いかが分かります。
それではいよいよ境内に入りたいと思います。
鳥居は昔ながらの地域にあるような石造りの鳥居……掲げられている神額はシンプルですが、立派です。
手水舎は階段の中腹にあります。
こちらは流しっぱなしではなく、蛇口を捻って使う分だけ出すタイプのようです。
しかし、中には枯れ枝や落ち葉などがあり、今回は断念……自前のウェットティッシュで清めます。
同じ中腹には他にも大岩に乗った石の社号標が……達筆過ぎて一見するとなんて書いているか分かりませんが『神社』の文字から『鹿妻神社』と記されているのでしょう。
拝殿前に来ると結構大きな狛犬がいました。
鳥居前もそうですが、何かと大きい岩や石像が目立ちます。
鉱山師の繋がりを意識してのことでしょうか?
今度は拝殿の全体を見てみましょう。
小さいながらも光の加減によるものなのか、しっかりした造りに見えます。
お賽銭箱は見当たりませんでしたが、近年は盗難が多く見られるので盗難防止の観点から撤去されたのかもしれません。
社名の字がかすれてほとんど見えなくなっていますが、額の大きさから考えるとさぞ立派なものだったのでしょう。
この場所は少し高台にあり、川の近くということもあってか風雨の影響が特に強かったのかもしれません。
しかし、拝殿自体はそれほど汚れや損傷などがあまり見られないので定期的に人の手で管理がされているのだと思われます。
拝殿の横に移動すると御神体を祀る本殿が見えました。
扉は固く閉ざされているようです。
こちらの神社では8月30日が例祭とのことですので、その際に扉が開くのでしょうか?
いつか参加してみたいものですね。
こちらは舞殿……神楽殿です。
意外と小さな神社には無かったりするのですが、鹿妻神社には立派な舞殿がありました。
思わず周囲を巡ってじっくりと観察……こちらも例祭の時に使われるのでしょう。
残念ながら由緒書きなどはなく、初めて訪れるとどんな神様を祀っているのか分からなくってしまいますが、そのような背景や歴史を調べるのもまた神社巡りの楽しさでもあります。
おわりに
私は人が多い場所が苦手で参拝する人が多くなる土日祝日の時は人気の少ない神社を探して参拝することがよくあります。
そうしていると意外と知られていない神様を祀られていたり、自分の知っている神様を祀っている神社と出会い、穴場を見つけたような気分になれます。
皆さんももし、神様に興味があり自宅近所で行ったことのない小さな神社がある際は時間がある時に立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
もしかしたら新たな発見や出会いがあり、ご加護を頂けるかもしれませんよ?