科学が発達していない昔、どれほどの労力を駆使しても自然に勝てなかった人々は神仏に供物を捧げることで、その驚異的な力を抑え生活していました。
それはお米だったり、農作物、海産物や獣など……それでもどうしようもない時、人々は同胞を差し出し、神の力を鎮めようとしました。
その風習が生贄……『人柱』です。
ですが、それは一歩間違えると大いなる災禍となって人々を襲い、子々孫々……末代まで不幸に見舞われるか、血を途絶えさせるに至ります。
今回はそんな人柱の中でも岩手で特に有名な伝説とその舞台となった場所をご紹介します。
文献にも残る悲運の乙女がもたらした災禍
概要
北上市と奥州市の狭間にある金ヶ崎町……岩手の人柱伝説の中でも特に有名な『おいし観音』にまつわる話の舞台は、この町にある『千貫石堤』と呼ばれる広大な溜池です。
2010年には農林水産省の『ため池百選』にも選ばれ、周囲にはキャンプ場やアスレチックなどもある長閑な森林公園ですが、一体ここでむかし何があったのか?
伝説
以下はその『おいし観音』にまつわる伝説となっています。
千貫石堤は天和二年(1682)に起工し、元禄四年(1691)までの十年を要して竣工した。起工より三年間は、毎年土手が破れたので貞享元年(1684)伊達藩の普請奉行、川田勘祐が取立をなし長さ六十八間(一二四米)高さ十三伏(四〇米)の堤防を築き、石を裏込めし、更に人柱を立てたのであった。人柱は釜石から『おいし』という十九才の女を銭千貫で買い求め、石の唐櫃(からと)に封じ、二才の牛もろともを限り、生き埋めにしたのであった。川田勘祐の邸は仙台城下中島にあったが、それ以来毎夜「闇(くら)いぞ、闇いぞ」という声がしたので世間では女と牛の怨霊でありとうわさしたという。また、川田一族は二十一回りまでに死に絶えたとか、おいしに掛り合いを持った家は、代々他人継ぎにて一切子供が生い立たないとか言われている。この人柱後六十年、宝暦元年(1751)に堤の底樋が大破。また百年の年季ながら、約九十年経た安永六年(1777)五月三十日から七日七夜降り続いた細引雨で、六月六日の夜、堤防が絶破。田畑や採草地の荒敗甚大、流出家屋十二、人畜の被害多数とある。決潰のさい、二十尋(三六米)ほどの青光りが流れ出たので、人柱の怨霊といわれたという、下って昭和五年(1930)から県営事業を以って大改築着工。同十年竣工。今日に及んでいるが、昭和五十年(1975)に至り、千貫石部落の婦女の間に、たびたび人柱の夢枕が立つので、同所の千葉時江、宮舘サヱ子、宮舘キワ等がおいし観音建立を張願。千貫石土地改良区に替助を求めたところ欣然同意。直ちに役員会にはかり、理事長 阿部久男を建立委員長に推し、役員や関係者及び全組合員二千余名、並びに篤志者等の喜捨を仰ぎ、おいし観音を建立し、人柱の冥福と千貫石堤の永久安泰を祈願することになったものである
引用元:慰霊碑・おいし観音建立の由来
こうして見るとなかなか壮絶ですね。
千貫石堤という名前はこの伝説からきているようです。
それにしても昭和の頃まで話が続いているとは……ごく最近の出来事ですよ。
ただ、ところどころ難しい言葉が使われているので、現代語に訳しながら改めてざっくり説明させていただきます。
まずは天保二年……江戸時代でいえば徳川綱吉が将軍の頃です。
その頃に堤防を作っていましたが、三年間土手が崩れてばかりだったので、仙台藩の普請奉行である川田勘祐が人柱を立てることを考え、釜石から『おいし』という19才の女性を銭千貫で買い付けました。
ちなみに銭千貫を現代換算すると1000文分で一貫……約12000円。掛ける1000ですから……約120万円ということになります。
このおいし……器量(容姿)のほうはあまり良くなかった、とか目があまり見えなかったともいわれていますが、親は「嫁には行けないだろう……」と心配していたのは確かなようです。
そんな中、身分の高い人が120万円で嫁にもらいたいと言ってきたのですから、おいしも両親も喜んだことでしょう。調べてみると、どうやら家族も本人も人柱については何も聞かされていなかったようです。
そうして、何も知らないおいしは二才の牛とともに石の棺に生きたまま入れられ、埋められました。
この時、おいしは直前に異変に気付き「死にたくない」と訴えた、とも伝わっています。
騙して連れてこられ、命乞いする人を人柱にする……やり方がむごすぎて怒りを覚えてしまいます。
人柱の任期は100年としていたそうですが、100年だろうが1000年だろうがそんなことは関係ありません。
おいしの怨みは凄まじく、まずは発起人である川田の元に声だけ現し、その一族はやがて滅びてしまいます。
さらには生前に関わりのあった人達の子供は全員大人になるまでに死んでしまい、他人から養子として子供を貰わなければ成り立たないほどになってしまいます。
そのうえ、肝心の堤防は六十年後に大破し……任期となる百年の頃には七日七晩降り続いた雨により決壊(絶破という言葉は初めてみましたが、恐らく完全に壊れたと思われます)その際、36mほどの青い光が流れ出し、田畑と家屋、人や家畜を飲み込みました。
もう「地獄に落ちてでも関わった者達を皆殺しにする」という強い意志が感じられます。
そうして、昭和の頃に大改築を行ったそうですが、地元の女性達の夢枕においしと思われる女性の霊が立つ事件が多発し、供養の意味も込めて観音像を建立するに至りましたが、現在でもたびたび若い女性と牛の幽霊が目撃されているとされています。
このことは『金ヶ崎町史』にも記録されており、かなり大事であったことが伺えます。
それにしても人間の怨み……特に女性の念は恐ろしいです。
アクセス
『おいし観音』は千貫石ため池(千貫石堤)のほとり、高台にあります。
千貫石ため池は『千貫石温泉 湯元東館』傍にある道から入ることができます。
千貫石温泉自体を目指すならば『国道4号線』から胆沢金ヶ崎線である『県道196号線』に入り、そこからひたすら直進。そうしてふつかる花巻平泉線こと『県道37号線』を右(山側)に曲がり、再び直進していくと温泉に着くことができます。
ため池からおいし観音へはため池の駐車場に車を停車し、高台までの階段を上るルートがありますが、こちらは運動したい方にオススメのルートでなかなかに厳しいです。
実は地図上に記載はされておりませんが、森林公園キャンプ場を過ぎてから現れる十字路を左へ曲がった先に幅は少し狭いですが、森の中へ通じる小道があります。(「おいし観音」という小さな看板もあります)
衛星写真の地図にすると分かりやすいですね。(十字路を曲がった先にわずかに出ている灰色の線がその道になります)
そこから先は対向車が来てしまうと避けられないほどの道にはなりますが、真っ直ぐ『おいし観音』まで繋がっているので、体力に心配がある方はそのまま車で高台まで行くこともできます。(途中拓けた場所もあり、そこに車を停めてから歩いて行くこともできます)
自身の体力や車の状態を見極めてからご利用ください。
探勝レポート
それではさっそく探勝といきましょう。
今回は『おいし観音』途中にある拓けた場所に車を停めてスタートです。
画像としては到着してからのものになります。
高台には少し拓けており、そこには立派な観音像が立っています。
この日は花も何もありませんでしたが、ちゃんと定期的に人が訪れ、供養しているそうです。
手を合わせ、ご挨拶と供養をした後……少し過ごさせていただくことと、ブログにアップする旨を伝えます。
19才……当時では立派な大人でしょうが、今の時代ではまだまだ若い。
さぞ、無念だったでしょう。
この日は天気も良かったため、とても見晴らしが良かったです。
向こうの山まで見渡すことができ、眼下には田園が広がる……美しい景色です。
ベンチやテーブルもあり、ゆっくりと過ごすことができます。
こちらは高台入り口から千貫石堤方面の景色。
立派な山がそびえ立っています。
森が多く、池は見えませんがこれもこれで良い景色です。
それにしても本当に良い景色です。
これなら、おいしの魂も安らかに眠ることができるでしょう。
それでは、観音像周辺を見ていきましょう。
まずは傍にある慰霊碑から……かなり大きく、字もところどころ消えかかっていますが、立派な石碑です。
たとえ、書物が燃えようが人々の記憶が薄れようが、この石に記されていれば後世に残り続けることでしょう。
そんな石碑の後ろにはおいしと共に入れられたであろう二才の牛を模した像が。
牛だって命ある存在……一緒に弔わなければなりません。
近くには南無阿弥陀仏のお地蔵様が……今なお、おいしを弔っているのでしょう。
現世で人を殺めると地獄へ行くとは言いますが、死後に人を殺めた場合も同様なのでしょうか?
昔は仇討ちが正当化されたり、忠臣蔵などでも美談として描かれていますが……個人的には浄土に行って欲しいものです。
観音像の後ろには墓石が隠れるように鎮座しています。
描かれている文言はおいしの戒名でしょうか?
人を騙すこと、傷つけること…………その悲惨さを改めて知ることができます。
命まで届かないにせよ、それが未だ平然と行われている現代……おいしの怒りが再燃しないよう、今を生きる私達は誠実であらねばなりません。
最後に舞台となった千貫石堤を眺めます。
空を映す静かな湖面に山々に囲まれた美しい景色……ここで様々な人が犠牲になったとはとても思えません。
複雑な気持ちを抱きつつ、今回の探勝は終了です。
おわりに
やはり何かを犠牲にして成し遂げたものというのは、犠牲にされた方もした方も双方にとって悲惨な結末が待っているといえるでしょう。
おいしと牛の命を犠牲にして作られた堤防は結局のところ、決壊していますし……人柱を行った者も関わった者も、見て見ぬフリをして平穏な生活を送ろうとした人々も結局のところ皆犠牲になっています。
平将門公然り、番町皿屋敷のお菊に然り……人の怨念というのは時代を越え、関わった人に伝染する特徴を持っているのかもしれません。
清く正しくとまではいかずとも、できるだけ誠実に真摯に生きていく……それがおいしに対する一番の供養なのかもしれません。