前回のあらすじ……

沖縄上陸2日目にて念願の美ら海水族館でジンベエザメを見ることに成功した私シードル。
本部の歴史に触れ、岩手との縁を知り、沖縄の原風景を堪能し、幸先のスタートを切ることができ、大満足。
しかし、油断大敵……ここから沖縄の土地というものをその骨身に沁みるまで痛感することになろうとは、この時はまだ思ってもみなかったのでした。
果たして、一体何があったのか?
曇天の下、頼れるのはゆいレールと己の足!

4/17日、朝の7時……宿泊したホテルをチェックアウトし、赤嶺駅へ向かいます。
前日の予報ではこの日は曇り後、午後から雨とのことで空はいまいちな曇天……そのため、レンタカーは借りずに那覇市内の観光にしました。
慣れない土地で続けて運転するのも負担になりますからね。無理は禁物です。

この赤嶺駅は日本最南端の駅として知られています。
最南端といっても終点ではなく、もう一つ先にある『那覇空港駅』が終点となります。
では最南端ではないのでは? と思う方もいるでしょうが、那覇空港駅は日本最西端の駅という称号を持っています。
つまり沖縄にいるだけで最南端と最西端の駅、二つも制覇できちゃうというわけです。

今回の移動手段はモノレールと己の足のみ!
バスやタクシーはなるべく使わないこととし、モノレールの1日乗車券を1000円で購入します。
ただ、この時の私は己の力を過信するあまり、過酷な1日を過ごすとはまだ夢にも思っていないのでした。
琉球の象徴、首里城
赤嶺駅からゆいレールに乗り、目指す駅は『首里駅』
ここはあの世界遺産『首里城』にほど近いところにある駅です。
首里城は那覇港を見下ろす丘の上に建つ城跡……よって駅からは学生たちに交じって徒歩で向かいます。
その途中なにやら大きなため池みたいなところを発見。

ここは『龍潭(りゅうたん)』と呼ばれる池でまたの名を『魚小堀(イユグムイ)』
1427年……琉球王国の第一尚氏王統・第2代尚巴志王の命により、国相である懐機が作庭したといわれる人工の池です。
名前の由来は魚が多く棲んでいたところから付けられたといわれています。
きっかけは、1425年……琉球にやってきたした冊封使(中国皇帝の使節)が尚巴志王に首里城北に作庭するように勧めたとされ、尚巴志王は懐機を明へ派遣し、中国各地の池を調査した後、帰国後に作庭したといわれています。
記録によると池の周囲には各国の美しい花々が植えられ、掘った土で安国山を築造し、水辺には魚が泳ぎ、水面には首里城が映りこんだ、琉球第一の名勝地であったとのこと。
龍潭では以降、冊封使が来た折には、池に龍船を浮かべ歓待の宴が行われていたそう。
どの地域でも権力者とは池を作り、船遊びに興じるというのは共通のようですね。

現在では鯉などが泳ぎ、数多くの水鳥達が戯れる憩いの場所となっています。
そんな龍潭の近くにある坂を上ると……

首里城への入り口なる門が見えてきました!
こちらは『守礼門』……沖縄首里城といえばこの建物! この色彩ですよね!

門をくぐり、歓会門へ………沖縄の城ならではの蛇行した石垣が見えてきます。
台風がよく通り、湿気も多い沖縄では木は傷みやすく風で飛ばされやすかったことでしょう。
となると石を使うことは必須となるわけですが、それでもこれほど綺麗に加工できるものなのかと目を疑いたくなるほど、どれも綺麗な造りです。


本土の石垣は大きさの違う石を組み上げたり、砂利を混ぜたり……様々な建築技法を持って組み上げられますが、沖縄の石垣はどれも同じ形と大きさで不自然なほどにぴったりと揃っています。
また石垣のわずかに拓けた場所にはソテツを始めとした樹木が植えられているのも特徴。
本土の城にも桜や松なんかは植えられていますが、そのどれもが二の丸や本丸といった広場になっている場所か、山城のような元々山に生えていたものが大半……攻めにくく守りやすい、に特化しているよりも来賓用に優美さを中心としているのが分かります。

各門の至るところにはシーサーらしきものが狛犬のように鎮座しています。
恐らくシーサーで間違いないかと思いますが、よくお土産とかにある素焼きのものとは違って、なんとなく威厳があります。


しかし、丘の上にあるとはいえ上がるのは容易じゃありません。
さらに大荷物であるリュックとショルダーバッグも持っていたため、重量があります。
しかも、この階段……広く作られており歩きやすそうに見えますが、次の段差までの距離が少しばかりあるため余計に体力を使います。
この石造りの階段は本土の城にもよく見られますが、侵略してくる敵は上がりづらいため攻めにくく、守りに徹した自軍は下りやすく戦い易い構造になっているそうです。
敵兵の気持ちが骨身に沁みてよく分かります。

ようやく階段を上りきることができました。
序盤からかなり疲れましたが、眺めはとても良いですね。


階段を上がった先は『下之御庭(しちゅぬうなー)』という広場になっており、有料区域となっている『首里城復元工事』に入るための券売機やトイレなどが設けられています。
とりあえず、ここで一休み。

このエリアでは首里城で使われていた『大龍柱』の補修の様子も展示されていました。
龍を模した柱……とても精密に作られています。

こちらは首里城の御嶽……石の囲いがしてあり、厳重そのもの。
そんな御嶽の木の上には……

猫がのんびりと休んでいました。
これはなんだか縁起が良いですね!

遠くに那覇港を臨む眺め……あいにくこの日は曇天気味ではっきりとは見えないですが、天気が良かったらさぞ最高の眺めになっていたことでしょう。
まぁ、この状態の眺めも素晴らしいですけどね。


券(入場料400円)を購入し復元作業の工事現場へ入ると、綺麗な首里城の外観が……。
作業も屋根の部分や柱の部分と階層ごとに分けられ、行われていました。
ぜひとも、生きている間に復元されて欲しいものです。


有料区域にはお土産屋さんのミュージアムショップがあり、そこでは御城印や御城印帳も手に入れることができますよ!

首里城は第二次世界大戦中に一度焼失し、その後の1992年に柱・壁・瓦など朱色を基調として再建されました。
しかし、2019年10月31日に正殿など主要7棟が火災で焼失し、以降は現在でも復興作業が進められています。

火災により展示されていた工芸品の多くは焼失してしまいましたが、遺構などは変わらず残っていたのは幸いでしたね。


首里城の具体的な創建年代は明らかではありませんが、現段階の最古の遺構は14世紀末頃とされ、今帰仁城同様『三山鼎立の時代』の中部地域、中山の城として使われていたことが分かっています。

尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城は王家の居城として用いられるようになり、沖縄県内最大級の城となりました。
しかし、数回にわたり焼失しており、第二次世界大戦中の沖縄戦や琉球大学建設の際はほぼ完全に破壊されてしまったそうです。
焼失といい損壊といい、憂き目に遭う宿命を背負った城なのかもしれません。


とはいえ、そのたびに再建されているわけですから逆に考えると不死身の城……復活の城ともいえます。
そのうち『不死鳥城』なんて呼ばれる日が来るのかも……。



瓦や柱一つにも獅子や龍といった強い力を持つ生き物の名を入れているあたり、強靭さを重視していたのかもしれません。


琉球の歴史を知り、復興の様子を眺め、那覇の街を臨む……首里城は再び復活するでしょう。
そうして、その暁には……できれば私ももう一度ここに訪れてみたいものです。

入り口とは別の門をくぐり、首里城を跡にして城下町へ………。
今度は琉球王家の別邸へ赴きましょう。
琉球庭園、識名園
次なる目的の場所へ行く前に失った水分と体力を回復するため、少し休憩します。
取り出したのは『ちゅらうみサイダー』
実は昨日の美ら海水族館に行った際に購入していたのです。
このサイダーにはぬちまーすの塩も使われており、ミネラルの補給にもぴったりです。

サイダーを飲んである程度体力が回復したため、出発します。
そんな折、道中でこのような所を見つけました。

通った当初はこの石碑の裏に生えているのが大アカギかと思い、そのまま過ぎてしまいましたが、後々調べてみるとこの石碑の隣にある細い道の先を下ると『内金城御嶽(うちかなぐすくうたき)』という御嶽があるそうで、そこには樹齢300年にもある大アカギがあるそうです。
その大アカギには「旧暦6月15日に神が降りてきて願い事を聞いてくれるという言い伝えがある」そうで……非常に惜しい場所を逃しました。
これを見ている方は沖縄に行った際、ぜひとも行って見てください。
そんな住宅街を歩いていると途中から何やら道の様子が変わり始めました。

まるで城のような石畳の道……この道は金城にある石畳道で、16世紀に首里から那覇港や沖縄本島南部へ通じる主要道路として造られた『真珠道(まだまみち)』の一部だそうです。
真珠道とは、主に略奪を行う海賊からの脅威に対する防衛を目的に首里城から那覇港に向かって兵士を派遣するために使われる主要な通りのことで、周辺地域のインフラ整備において多大な貢献をしました。
横にある『石敢當(いしがんとう)』は沖縄の道のあちこちにあり、古くから信じられている魔物(マジムン)を撃退する、魔除けの役割を果たす石碑。
いわば道祖神に似たようなものです。
中国の福建省から伝来したものだそうで、強い武将の名前が由来だそうです。
このマジムンは沖縄で言い伝えられている魔物の総称。
股をくぐられたものは死んでしまうという恐ろしい伝承があり、種類も動物の身なりをしたものからしゃもじが化けたものまで様々……ただし、真っ直ぐにしか進めず、石敢當の名前を見た瞬間に砕けてしまうという特性があります。
強いのか、弱いのか……石敢當があまりにも強すぎるのか、どちらなのか分かりません。

敷石は20~30cm程の琉球石灰岩を組み合わせた『乱れ敷き』というもの。
当時は総延長約10kmにも及んだ道でしたが、現在では『島添坂(しますいびら)』の下方にある金城大通りから金城橋へ下る約300mで石畳道がみられます。
こちらもフクギ並木同様、沖縄の原風景を象徴としていますね。
ただし、雨の日は濡れて滑りやすくなるのでご注意を。

そんな石畳道には無料で使える民家の休憩所があります。
雰囲気がとても良いです。
ここで少し休憩を……と思いましたが『ハブに注意』の張り紙を何枚か見てから少し怖くなり、そそくさと撤収。
マジムンよりもハブのほうが恐ろしいです。


けれども、雰囲気はとっても良く、古き良き沖縄の城下町といった感じです。
まるでタイムスリップしてきたみたいです。
……坂が少しばかり急なのだけがしんどいですが。

こちらは沖縄のお墓……プライバシーに関わるため、なるべく遠くから撮影しております。
お墓というよりまるで家ですね。しかも大きい。
亡くなってもなお『家族』として存在しているかのような、温かみがあって良いですね。
よく墓地で肝試しなんていうと怖いイメージがありますが、全然怖さがないのは沖縄ならではでしょう。

沖縄の慣れない暑さに汗をかきつつ、道中の目新しいものを眺めながら歩いていると遂に目的地である『識名園(しきなえん)』に到着しました。
入場料400円を払い、いざ中へと入ります。


中に入ると南国特有の樹木たちがお出迎え……道中でもありましたが、暑い場所では木の根のような樹木が生えやすいんですかね?


この識名園は俗にシチナヌウドゥンとも呼ばれ、琉球王家最大の別邸。
1799年に造られ、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されていました。
1800年には尚温王冊封のため訪れた正使の趙文揩、副使の李鼎元(りていげん)を招いています。


1941年(昭和16年)12月13日に国指定の名勝となりましたが、1945年(昭和20年)4月の第2次世界大戦の沖縄戦で破壊されました。
首里城といい、徹底的に破壊されていますね。
その後、1975~96年(昭和50年~平成8年)に総事業費7億8千万円をかけて復元整備され、1976年(昭和51年)1月30日に改めて国指定の名勝となり、2000年(平成12年)3月30日には国指定の特別名勝となりました。
さらに、2000年(平成12年)12月2日には、ユネスコ世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)として登録された歴史を持っています。

識名園は首里城の南にあるので『南苑(なんえん)』とも呼ばれています。
王家の別邸は実はもう一つあり、首里崎山町に『御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)』という別邸が設けられ、そちらは首里城の東にあることから『東苑(とうえん)』とも呼ばれていたそうです。

それでは早速、邸宅の中に入ってみましょう。
見た目は平屋の民家のよう……あの豪勢な首里城と比較すると少し質素な感じがします。

中には畳があり、全てが木造……なんだか武家屋敷に近い雰囲気です。

けれども、木の素材によるものか全体的穏やかで明るいような感じがします。
武家屋敷はどことなく暗っぽく、威厳があるものですがこちらは良い意味でゆったりとしています。

琉球でもお茶を嗜んでいたようですね。
というより、元は中国から伝来したものですから寧ろ茶の湯文化としてはこちらが先なのかもしれません。

こちらは『台所』と記された木板……まな板でしょうか?

こちらは竈。
なんというか、本土と同じようですが微妙に違うような気もします。
高さでしょうか?

溶岩なのかサンゴで出来たものなのか変わったアーチ状の橋が架けられています。
小船程度ならくぐり抜けることも……難しいですね。

階段があるタイプとないタイプの2種類ですね。
高さは以外とありますし、濡れていたら滑りそう……油断大敵です。

識名園の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした『廻遊式庭園(かいゆうしきていえん)』というもの。
これは、近世に日本の大名が競ってつくるようになった造園形式ですが、識名園では「心」の字をくずした池の形(心字池)を中心に、池に浮かぶ島には中国風あずまやの六角堂や大小のアーチが配され、池の周囲には琉球石灰岩を積みまわすなど、琉球ならではの工夫が施されています。


邸宅も遠くから見ると結構広い造りになっていますね。

本土の庭園とは違い、日本と中国が融合したかのような面白い庭園です。

この水路は昔、下の方に建物が設けられていて暑い日などは流れ落ちる滝を利用して涼しく過ごしていたのだとか……昔の人の知恵は本当にすごいです。

かつては春に池の東の梅林に花が咲いて香りが漂い、夏は中島や泉のほとりに藤の花、秋には池のほとりの桔梗が花を咲かせ、常に夏の沖縄の中でも四季の移ろいを楽しめるよう、精巧な配慮がなされていたそうです。
どんな状況においても知恵と工夫で楽しむこと……大切な教えですね。

こちらは船着き場……月が出ている時に船を浮べたらさぞかし美しかったことでしょう。


こちらは防衛隊が掘った防空壕の跡。
歴史ある場所でも沖縄戦の爪痕は深く残っています。

こちらは展望台となっており、那覇を見渡すことができます。
本当になんでもある別宅ですね。


ここからの眺めでは海を見ることができません。
ただこれには理由があって、海の向こうから使節が来た際に「この沖縄は海が見えないくらい本当は広いんだ!」と思わせる必要があったみたいです。
そうすることにより侵略による脅威を退けたとか……手法は単純ですが、この機転で幾度も国を守ってきたのでしょう。
頭が回る人になりたいものです。


別邸として利用されてきた識名園ですが、勉学や武芸を教える学び舎を設けていたそうです。
後の世でも人々の役に立つ……遺す場合はそのようなものを残したいものです。
観音信仰の聖地、首里観音堂
識名園を跡にし、次なる目的地は沖縄のお寺『首里観音堂』です。
他の土地に来たからには最低一か所でも神社仏閣を訪れる……これが私の旅のもう一つの目的でもあります。
場所を調べてみると地図上ではさほど距離は遠くない模様……ということで、タクシーは使わず徒歩で向かってみましたが、ここで牙をむくまさかの石畳。
急な坂とゴツゴツした石道が着実に足にダメージを与えていきます。
さらにはここに来て、曇天だった空に太陽が顔を出し、沖縄の猛暑が襲い掛かります。
歩くことが好きな私ですが、ところどころで座って休憩。
しかも背負っているリュックの重みもあって、体力の消費が尋常じゃない。
ここまで苦労して向かっている『首里観音堂』ですが、実は先に訪れた首里城からかなり近い所にあったのは、この際考えないようにしていました。考えると心が折れそうでしたので……。
こういう見通しの甘さが自身の欠点であり、勝手気ままなぶらり旅における弱点でもありますね。
計画性の大切さというものを五体に嫌というほど分からされました。
そうして息を切らせ、大粒の汗をかき、石畳の坂を上がり終えてようやく到着。

お寺は住宅街の中にあり、門構えが無ければお金持ちの家と間違えるほど綺麗な外観です。

入り口には観音竹の由来などもあります。

首里城に似て、朱を基調とした美しい本堂ですね。とても大きく立派です。
首里観音堂の正式な寺号は『慈眼院(じげんいん)』といい、臨済宗妙心寺派に属するお寺……首里観音堂とは通称です。
1618年に建立され『首里十二支巡り』のお寺としてお参りされています。
御本尊は『千手観音菩薩』で生きとし生けるものすべてを漏らさず救う千の手を持ち、その手のひらにある眼で悩み苦しむ衆生を見つけては手を差し伸べて下さる、多大な慈悲をお持ちの菩薩様です。

この場所は那覇を一望できる見晴らしの良い場所にあり、また沖縄随一の観音信仰の聖地ともされています。
私の真上は晴れていますが、惜しいことに海側はまだ雲が掛かり気味。

境内には石に掘った池の画があり、鯉や蓮華が表現されています。
これは初めて見ましたが、とても美しい画です。

こちらは沖縄戦を生き抜いた『長老樹』と呼ばれる樹齢120年のガジュマルの木。
パワースポットとして沖縄の人々に愛されているそうです。
このほか、お寺には合掌するワンちゃんの「コナン君」もいるそうですが、この日は住職様が法要で不在のためか見当たりませんでした。
御守などの授与所は本堂の中にあります。
この日は住職様が不在だったのもあってか授与所の貼り紙に「御朱印はございません」という文字を見かけ、内心落胆しながらも、御守を購入しながらそれとなく伺うと…………なんと書置きならあります、とのことでそちらを頂きました。
無茶な要望にも関わらず、対応して下さり誠にありがとうございます!

正直、仏様のご加護と縁というものをこの時、とても強く感じました。
王が眠る墓陵、玉陵
御仏の縁を感じ、体力はほぼ枯れていましたが気力は回復したため、そのまま近くにある『玉陵(たまうどぅん)』へと向かうことにしました。(玉うどんではありません)
もちろん徒歩です。
この時になると膝頭付近と肩に痛みが出始め、日差しもカンカン照りな状態。
もう楽しむというか執念で動いている感じですね。
幸いなことにこちらはかなり近いところにあったので、助かりました。
入り口にある『奉円館(ほうえんかん)』と呼ばれる券売所兼展示室で入場料(300円)を払い、展示を見た後に玉陵へ。

こちらは玉陵の入り口。
昔はこの中には王族しか入れず、その他の人々は手前にある拝所で拝むしかなかったとのこと。
このような貴重な場所に入れるとは……現代に生まれて良かったです。

一礼して中に入ると広場のような敷地に石垣造りの大きな建物が現れます。
こちらが玉陵……琉球王家のお墓です。


玉陵は1501年に尚真王が父である尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。
墓室は三つに分かれており『中室』は“洗骨前の遺骸”……創建当初の『東室』は“洗骨後の王と王妃”……『西室』には“墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族”が安置されています。

全体のつくりは当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物で、墓域は2.442平方メートルあります。
こちらも首里城や識名園同様、沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけて修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して現在に至っています。
よく見ると石壁には様々な動物の彫刻が掘られています。
この細かな部分まで再現するのはさぞかし大変だったでしょうね。

ちなみにこの玉陵の傍には石碑があり、その碑文には尚真王他8人の名が記されており、そこには“この書き付けに背くならば、天に仰ぎ、地に付して祟るべし”と記されています。
この碑文には長男・次男の名が見えず、王室内における勢力争いによって廃された、とされていますが……一歩立場が違えば完全に呪いの文面です。
確かピラミッドにも似たようなものがありましたよね? 墓を暴くと祟りがとか……。
王家の墓にはこの手の話が必ずあるものですね。

お墓参りを終え、続いては近くにある『東の御番所(あがりぬうばんじゅ)』へ。
この建物はお墓を守る番人(墓守)やお墓参りに訪れた王族が休憩するのに立ち寄った場所です。
開放感があり、風の通りもよくとっても涼しい。
暑さでヘトヘトでしたので、ここでしばらく休憩させて頂きました。

沖縄の総鎮守、波上宮
玉陵で休憩し、再び長い道のりをかけて首里駅へと到着。
既に膝には痛みが走り、私自身の足は走るどころか歩くのも難しい状態に……関節って本当に大事です。
本来の予定はこれで終わりでしたが、時刻はまだ14時のため宿にチェックインするどころか探すのにも少し早い……そこでせっかくフリー切符もあるんだからと、もう一カ所行くことにしました。

ゆいレールに乗り、今度は『旭橋駅』へ。
そこで降りて向かうは沖縄の総鎮守『波上宮』です。

大きな鳥居が目立ち、沿道には土産屋さんや食堂もあり、結構大きな規模の神社です。

本殿はこちらも沖縄らしい朱を基調とした美しい造りとなっています。
御祭神は伊弉冉尊 〔いざなみのみこと〕、速玉男尊 〔はやたまをのみこと〕、事解男尊 〔ことさかをのみこと〕が主祭神とされており、他に火神〔ヒヌカン〕、産土神〔うぶすなのかみ〕、少彦名神〔すくなひこなのかみ〕がいます。
ヒヌカンとは聞き馴染みがないかも知れませんが、本土でいうところの竈神のような神様で沖縄独自の呼び名となっています。
そんな波上宮の由緒としては……
当宮は古く沖縄独自のニライカナイ信仰(海の彼方より幸福を持ち来る神々に祈る)に始まる。
その後この聖地に神のお告げにより王府が熊野三神を祀り以来、朝野の尊崇極めて篤く「端城(はなぐすく)」または「なんみんさん」などと称され親しまれてきた。
社殿の創建は不詳ながら史記『琉球国由来記』に薩摩の頼重上人が波上宮の別当寺として波上山護国寺を開山(一三六八)し、ここ宮寺(みやでら)を王の祈願所としたとみえ創建時が伺われる。
また大永二年(一五二二)寛永十年(一六三三)享和三年(一八〇三)などには天災・火災などによる造営や再建の様子が史籍に散見せられる。
明治二三年(一八九〇)官幣小社に列格し豪壮な社殿を誇ったが先の大戦の戦火で灰燼に帰した。昭和二八年(一九五三)ハワイの人々の赤誠により本殿の再建がなされた。昭和三六年(一九六一)には拝殿が県内外の奉賛により再興され平成五年(一九九三)に戦後五十年にして全社殿の本格的御復興がなされた。
引用元:波上宮由緒より
元々こちらの神社はニライカナイ信仰を行っていたのですね。
ニライカナイ……来訪神や死者の国、理想郷など沖縄で古くから伝わる異郷。
一説では不老不死で知られる蓬莱や浦島太郎の竜宮とも称されています。
島や海の底にも例えられているのは周囲が海に囲まれている由縁でしょう。
琉球の神々が本土の神々と交わり、薩摩が来てからは仏とも交わって寺としての側面も持つ。
神仏習合と一言で片づけられない根深いものを感じますね。

こちらは摂社である浮島神社と世持神社……こちらもしっかりとお参りします。
この波上宮は琉球八社と称される沖縄でも有名な8カ所の神社の内の一つです。
時間があれば琉球御朱印巡りをしたいところですが……そこまでしてしまうとキリがなく、行きたい場所に行けないため、沖縄はこちらの神社で打ち止めです。
もちろん、御朱印も頂きました。

お参りを済ませ、神社周辺を少し散策。
神社の裏手には綺麗な砂浜『波の上ビーチ』があり、多くの人達が海水浴を楽しんでいました。

ビーチにはたくさんの屋台も並んでいます。
というのも、このビーチは那覇市で唯一砂浜がある場所。
沖縄といえど、どこでも砂浜があるわけではなく海水浴をいつでも楽しめるわけではない、ということですね。


そんなビーチの傍には何やら存在感を放つ岩が鎮座しています。

この岩の上には先ほど訪れた波上宮があり、岩もところどころ穴が空いており、祀られている様子。
一応、向こう側へ行けるみたいですが、私は膝がもう限界のため、やむなく断念。
探索もそこそこに切り上げました。
恐らく、ニライカナイ信仰の場として今でも使われている聖地なのでしょう。
探訪終了! しかし……
これで本日の探訪は終了となり、帰りに近くの食堂で『沖縄そば』(写真を撮るのを忘れました…)を堪能しました。
しかし、暑さのためか…疲労によるものか、味は美味しいのに食は進まず……途中で少し気分も悪くなってしまい、お店の人に謝りつつ、せっかくの沖縄そばを残して店を後に……。
足の痛みに耐え、気持ち悪いのを抑えつつ……なんとか本日の宿を探してチェックイン。
この日は『NAHA新都心HOTEL』さんにお世話になることにしました。
やはり無茶はいけないですね……初めての沖縄でハメを外し過ぎていたことによる慢心もあったことでしょう。
皆さんはくれぐれも私みたいにならないよう、計画性と慎重さを持って旅行を楽しんでください。
NEXT……
