前回のあらすじ……

佐賀にて神社仏閣を巡った私シードル。
日本三大稲荷、光明念佛身語聖宗総本山……いずれも高台からの景色は絶景で、聖域にふさわしい地であることを体現していました。
次なる地はいよいよ九州地方最後の地となる福岡……ここでは一体どんな出会いが待っているのか。
佐賀から博多へ
5/3日、朝8時半……朝早い列車に乗り、佐賀を旅立ち、続いて訪れたのはお隣にある福岡の博多市。
九州一の都市と称されるだけあってかなりの人で賑わっています。
今まで都会らしい所は至る所で見かけましたが、博多に関しては別格といっていいでしょう。

目新しいのもあり、博多の街をぶらり散策。
背の高い建物や交通量は想像していた通り……しかし、人の数が東京と思うほどやたらと多い。
そのうえ、着物や浴衣、法被のようなものを着ている人もちらほら……。
何か催しものがあるのか、それともこれが普通なのか?

いずれにせよ、最初の目的地であるお寺に向かって歩いていきます。
閻魔様を祀るお寺
博多の街をぶらぶらと歩く中、住宅街の中にある目的地のお寺『海元寺』へ到着。
山号は潮音山。正式名は『潮音山義弘院海元寺』です。
宗派は『浄土宗鎮西派』

この海元寺は全国的にも珍しい『閻魔大王』を祀るお寺。
由来としては、黒田光之公の宰臣鎌田九郎兵衛の槍持であった源七(出家名:円心)という人が、上方のとある辻堂で閻魔さまの木像の首の部分を、筑前に持ちかえって、これを安置するために以前祀られていた『自性院』を建てたのが始まりとされています。
現在はその自性院からこの海元寺へ移ってこられました。
また、隣には『西国三十三所』の観世音菩薩も祀っています。

海元寺では8月16日と1月16日の年2回、えんま祭りを行っており、この日は地獄の釜が開く日……つまり地獄の休日とされ、我々も地獄の様子を見させて頂ける日となっています。
その日はこんにゃくをお供えすることとなっていますが、これは灰汁(あく)で固めて作るこんにゃくを奪衣婆にお供えすることで、自分の病気の悪を取ってもらう、ということからきています。
古くから、特に子供の病気を治したり、母乳の出を良くしたり、下のやまいに効くと言われているそう。
実は奪衣婆は慈悲深い方で、博多では「こんにゃく婆さん」として古くから親しまれているとのこと。
……あれ、それだとえんま祭りではなく奪衣婆祭りなのでは?

そんな海元寺で頂いた御朱印(300円)はこちら……『えんま』の字が立派な一筆となっています。
対応していただき、ありがとうございます。

御朱印を頂いた後、お寺の方と少しお話をさせて頂くことに。
どうやら、本日から博多の通りの方では『どんたく祭り』というお祭りが行われているらしく、法被や浴衣、着物を着ている人を見かけたのはそれによるものとのこと。
また、この辺りは昔……江戸時代の頃は博多を守る防衛地点である、多くの寺が配置された寺町とのことでした。
なぜ、防衛地点としてお寺が配置されたのか……それは寺は信仰の拠点であると同時に有事の際には準軍事施設としての機能も有していたから。
博多の西には福岡城、東には敢えてお寺を多く建てることによって強固な防御にしていたのですね。

そのため、道路から少し外れてお寺のある方に行くと両端が壁になっている細い一本道になっていたり、お墓が立ち並んでいたりと工夫された形跡を見ることができます。
このような道は行軍を制限する役割……お墓は戦闘になった際に身を隠す場所や盾の役割を担っています。
さしずめ、博多は要害都市というわけですね。

博多祭り始まりの神社
寺町を歩き、そのまま周囲を散策すると人だかりの多い神社の前へとやってきました。
あちらこちらには『博多どんたく』の幟が立てられ、祭りの装束に身を包んだ人達が続々と中に入っていきます。
実をいうと次なる目的地『太宰府天満宮』へ行きたかったのですが、あまりにも人が多かったため様子を見ていくことに……。

正面の門には浅草にある雷門に負けず劣らずの立派な提灯と額が掲げられており、威風堂々とした雰囲気を放っています。


門構えもかなり立派……これは普通の神社ではないでしょう。
というのも、それもその筈……この神社は『櫛田神社』
『博多の総鎮守』とも称される神社で始まりは天平宝字元年(757年)……なんと約1260年以上も歴史のある神社です。

祀られている御祭神としては主祭神に『大幡主大神〔おおはたぬしのおおかみ〕こと櫛田大神』相殿神として『天照大神』と『祇園大神こと素戔嗚大神』が祀られています。
大幡主大神とは初代、伊勢国造(伊勢を支配していた)『天日別命〔あめのひわけのみこと〕』の子孫『大若子命〔おおわかこのみこと〕』のことで、この天日別命という方は神武天皇に仕えていた方で、代々伊勢神宮の大神主を務めた家柄の元締めでもあります。
伊勢にあった櫛田神社から分霊して創建……後に天慶4年(941年)に起きた『藤原純友の乱』にて討伐に任を与えられた小野好古が、戦勝を祈願して京都の祇園社から須佐之男命を勧請したし、以降は『祇園社』という別名でも呼ばれるようになりました。
時代が進み、戦国の世になると度重なる戦によって社殿は荒廃し、憂き目に遭いますが天正15年(1587年)に豊臣秀吉が博多の町を復興する『博多町割』の際に、現在の社殿を建立・寄進。
この事業には、当時の博多の豪商である島井宗室や神屋宗湛が資金を提供したり、かの有名な武将である黒田官兵衛や石田三成が中心となって関わる等、多くの人の手により蘇ることができました。

社殿では博多どんたくに参加される方々がご祈祷を受けていました。
江戸時代に行われていた『博多松囃子』が現在の博多どんたくのルーツといわれており、その出発点がこちらの櫛田神社。
そのため、博多どんたくに参加する人はまず櫛田神社でご祈禱を受けなければならないそうです。
どうりで人が賑わっていたわけですね。


神社の境内は流石は博多の総鎮守といわれるだけあって様々な社が鎮座されていました。
商業で賑わっていたこともあってか、稲荷神社も立派な造りです。


境内にあるこちらのイチョウは樹齢1000年近いという御神木……この間、様々な人が目にして思いを馳せたのでしょうね。

境内には他にも『博多祇園山笠』に使われる巨大な山笠もありました。
どんたくで賑わっている櫛田神社ですが、全国的に有名なのは7月に行われる博多祇園山笠です。
その他『博多おくんち』といった博多を代表する祭事の中心となっており、博多の祭りは全て櫛田神社から始まるといっても過言ではないでしょう。

境内の端には舞台が用意されており、どんたく祭りの前座ともいえる踊りが披露されていました。
このまま見ていきたかったですが、太宰府天満宮にも行かなければならないのでそこそこで立ち去ることに。

櫛田神社では直書き、書置きともに御朱印(300円)を頂くことができます。
お祭りで忙しい中、対応していただきありがとうございます。

祭りの縁もあり、御朱印帳(2000円)も購入。
赤いのとは別に青いものもありますが、大きさとしては赤い方が若干大きめとなっています。
カバーも掛けられており雨が降っても安心ですね。
購入する際は大きさに注意してください。

天神信仰の総本宮
思いがけない出会いを終え、続いて向かったのは受験生で人気な『太宰府天満宮』
ただ、どんたくの影響か……列車の中も駅も大勢の人でごった返し、参道も人、ひと、ヒトで埋め尽くされていました。

商店が連なる参道を進み、鳥居をくぐると一際大勢の人で賑わっている場所が……。
そこにあったのは太宰府天満宮といえば、で有名な『御神牛』
太宰府天満宮に祀られている学業に秀でた道真公の御神徳により、御神牛像の頭をなでると知恵を授かるといわれており、この時も牛を撫でるために行列が出来るほど。
私は行列には並ばずに遠くから撮影させていただきました。
なぜ、道真公と牛なのか…………その由緒としては道真公が承和12年(845)の乙丑(きのとうし)に生まれたということと、大宰府の地で亡くった際にその遺体を牽いていた牛が、あるところで伏して動かなくなり、その場所に門弟であった味酒安行が墓所を造営したことが、太宰府天満宮本殿の創建に至ったとされているため。
つまり、生まれから亡くなる始めから終わりまで牛と深い縁があったというわけですね。
ちなみに境内にはこの牛の像が11体ほどおり、先ほど訪れた櫛田神社にも牛の像があります。

しかし、人の数が多すぎて本殿を見る前に酔ってしまいそうです。
今の時期は受験シーズンでしたっけ?
時期はかなり外している筈ですが、これは大誤算です。

次なる鳥居をくぐり、『心字池』に架かる『太鼓橋』を渡ってその先へ……。
この心字池を造ったのは、道真公の門弟である味酒安行であると伝えられており、心字池という名前は、漢字の『心』を象ったことに由来しています。
三つある太鼓橋は、それぞれ過去・現在・未来という仏教思想に基づく三世一念を表しており、太鼓橋を渡って心身ともに清め、天神さまである道真公がいる本殿へ行くという仕組み。
仏教と習合している部分もあるようですね。


人の流れに身を任せ、ようやく本殿へ到着。
と思いきや、なんと本殿は124年ぶりの大改修により見られず。
現在はその手前にある『仮殿』に神霊は移されているとのこと。
その仮殿は約3年間の御本殿大改修期間に限り、使われ、建築家の藤本壮介氏の設計により造られました。
広い社殿に屋根の上には草花や木々といった植物が植えられている斬新なデザイン。
正直、もうこれが本殿でいいのではないか…と思ってしまいました。
こちらの方が古の社といった感じで私は素敵だと思います。

今更ですが、太宰府天満宮について改めて確認してみましょう。
太宰府天満宮の御祭神は『天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)』こと『菅原道真公』……学問、文化芸術、厄除けの神として崇められ、時には『日本三大怨霊』の一角である『雷神さま』として恐れられる一面を持っています。

その生涯としては……学問で朝廷に仕える家系に生まれ、5歳にして和歌、11歳で漢詩(月夜見梅花)を詠まれるなど幼少よりその才能をいかんなく発揮しています。
その後も日夜問わずに学問に励み、学者のみならず政治家としても、卓越した力量を奮って、26歳の若さで最難関の試験『方略試(ほうりゃくし)』に合格、33歳にして学者の最高位である『文章博士(もんじょうはかせ)』に任じられました。
通常の人間であればこの時点で驕り高ぶり、慢心してしまいますが、道真公に至ってはその姿勢は、常に至誠一貫。
42歳で讃岐守に任じられた際には、疲弊した民の暮らしを目の当たりにし税制度の見直しが必要と洞察され、後に抜本的な改革を成し…その後も数々の役職を歴任する中で、いち早く世界情勢を察知し、50歳の時に長年続いた遣唐使の停止を提言するなど、後の国風文化の礎を築きました。
そんな人柄と数々の功績により、時の宇多天皇の絶大な信頼も得て、学者としては異例の右大臣にまでなり、栄位を極められました。

何事も順風満帆、性格や能力にも欠点なし。
このまま平穏に行くかと思いきや……それを妬んだ藤原時平の策謀により、いわれのない罪で突然大宰府へと左遷されるという悲劇が襲います。
どの時代にもこういう輩はいるものですね……聞いているだけで腹が立ってきます。

その後は大宰府で衣食住に事欠く不遇の境地に陥ってしまいますが、それでも道真公はいつか自身に掛けられた疑いが晴れることを願いつつ、大宰府の南にある『天拝山』に登っては、七日七夜に亘って国家の繁栄と皇室の安泰を祈られた、と伝えられています。
ですが、その願い虚しく、延喜3年(903)2月25日……大宰府にて59年にわたる生涯を閉じました。
まさに清廉潔白というべき清らかな人生でした。

その後は御神牛の像の由緒通りの流れとなり、社殿が建立され現在に至ります。
その社殿は墓所の上に建立された日本で唯一の『菅聖庿(かんせいびょう)』と称され、全国天満宮約10,000社…天神信仰の総本宮として崇められています。

道真公の死後は清涼殿の落雷事件などがあったり、生前の功績が再度評価され、後に一条天皇によって、正一位左大臣さらに太政大臣の位与えられ、願いは叶えられました。
一方で、道真公を陥れた時平はその後39歳の若さで死去。
政治には弟の忠平が朝廷の中心を占めるようになり、時平の家は次第に没落していきました。
時平と忠平は兄弟ではありますが、性格は真逆で……忠平は道真公とも親交があったうえ、左遷にも反対していた人物。
奇しくも道真公の意志は仇敵の弟によって受け継がれたといっても過言ではないでしょう。

そんな逸話満載の太宰府天満宮の境内はかなり広大で、本殿の裏手には緑豊かな森が広がっています。
岩の間に刺さった松葉杖は……何か意味があるのでしょうか?
試しに引っ張ってみましたが私は抜けませんでした。
もしかしたら、選ばれし者しか抜くことができない勇者の剣や聖剣と同じ類かもしれません。
少なくとも私は選ばれし者ではありませんでした。

こちらは『包丁塚』……料理で使われた古い包丁を納める塚ですが、こんなに大きな塚は初めて見ました。

太宰府天満宮には、大小約100本あまりの樟があり、それらによって天神の杜が形づくられています。
特に樹齢1,500年を超える大樟は国指定の天然記念物にもなっています。



太宰府天満宮には左遷の際、道真公を慕って一夜で京都から大宰府まで飛んできた『飛梅伝説』の飛梅が御神木としてあります。
その縁から太宰府天満宮には『梅花紋』が使われているほど有名です。
境内にはその由緒にちなんでか、本殿裏手には約200品種、6,000本の梅の木が奉納され、初夏になると神職と巫女が梅の実を集める『梅ちぎり』の神事が行われます。

境内や参道に売られている名物『梅ヶ枝餅』を食べながら、梅の木を眺める……これもまた風情があります。

境内の奥地には鎌倉時代末期に京都の伏見稲荷大社から勧請され『九州最古のお稲荷さん』として親しまれている『天開稲荷社』もあります。

少し遠く、森の中を若干歩きますが、ここまで来たのなら行くべき場所。
もう少し頑張るとしましょう。

天開稲荷社の御祭神は『宇迦之御魂大神〔うかのみたまのおおかみ〕』
天に道が開け、運気が上昇する神社として信仰されており、パワースポットとしても知られています。

天開稲荷社にはすぐ近くに奥の院もあり、洞窟の中に祀られています。
洞穴の中にある社は神秘的な雰囲気に包まれています。
行列も出来ていたこともあり、中での撮影は控えさせていただきました。

境内は広大で一通り巡ると疲れてしまいますが、随所にはお食事処や休憩所があるのでこまめに休みながら参拝するのがオススメです。
すぐそばには『九州国立博物館』や『だざいふ遊園地』などもあり、子供から大人まで1日楽しむことができます。

そんな太宰府天満宮の御朱印(300円)はこちら……私が行った時は書置きは見られず、直書き対応のみでした。
ただ、御朱印帳も売っているため、持参していない方は御朱印と一緒に購入することになります。
あっさり、すっきりした御朱印で字がとても見やすい……対応していただき、ありがとうございます。

九州地方の宝物庫
遊園地に大人一人で行くのはアレなので、今回は『九州国立博物館』へ行くことにします。
いや~、実は国立と名のつく施設に行くのは今回が初めてなので、今から楽しみで仕方ありません。

長いエスカレーターを上がると目の前には鏡張りのような巨大な施設が……こちらが九州国立博物館。
外観からでもスケールの大きさが違います。

訪れたこの日は『はにわ』の特別展が開かれており、どこもかしこもはにわだらけ……そういえば今まで遺跡や土器、土偶は多く見てきましたが、はにわを見るのは初めてです。

お土産コーナーも人だかりができていました。
さっそく入ってみましょう!

中には歴史の教科書で見たことがある様々なはにわが展示されていました。
この甲冑姿のはにわ……剣の部分とか一歩間違えるとぽっきりと折れてしまいそうです。

はにわと一口に言っても色々な種類や形があるものですね。
動物を形作ったものはなんだか可愛らしさがあります。


はにわの中には一般にはお目にかかれない国宝級のものも……こういう貴重なものが見られるのも特別展ならではですね。
通常は撮影禁止がほとんどなのですが、今回撮影したものは撮影OKのもの……ご安心ください。
九州地方は縄文文化というか、古代日本の色合いが深く残っており、このような出土品が多いのでしょうね。

特別展を出て、今度は二階にある通常展示へ……。
内装も開放感満載の博物館……さすがは国立……スケールが違う。

通常展示では九州地方全土から集められた貴重な文化財が展示されています。
ここに訪れれば、九州の歴史や文化がまるっと分かるということですね。

展示品は歴史に詳しい方ならどれも涎が出てしまう程の一級品のお宝ばかり……特に沖ノ島から出土されたもののほとんどが国宝のものばかりなので、見なければ損ですよ!

こちらは金印のレプリカ……『漢委奴國王』というと皆さん歴史の授業で聞いたことはあるのではないでしょうか?
ちなみに本物の金印は福岡市博物館が所蔵しています。
とりあえず、レプリカでも見ることができたので満足です。

博多のアパにて……
九州国立博物館を出て、ホテルのチェックインの時間が過ぎてしまったので急いで博多駅へ……。
向かう途中で遅れる旨は伝えていたので問題は無かったのですが、宿泊予定のアパホテルの受付は大勢の人でいっぱい。
どんたくの影響か、はたまた九州一の都市のゆえんか……ホテルのスタッフさんも案内を間違えてしまうほど多忙だったので、恐らくは前者でしょう。
そして、今回はこの日を含めて福岡に2泊3日の滞在予定なのですが……料金がなんと約5万円ほど!
今まで泊まっていた場所の料金は平均5000~6000円ほどで抑えていたのですが、ここに来てまさかの10倍の値……。
これは博多ゆえか、あるいは円高のためか……これも恐らく前者でしょう。
とにもかくにも、どこへ行くにも人混みばかりで疲れ果てた私はすぐにベッドに倒れこみ、休むのでありました。
NEXT……
