盛岡城下を語る歴史ある葱台【盛岡市‖上の橋擬宝珠】
国指定……その言葉を聞くとなんとも仰々しく、畏れを抱くイメージがあります。
なんせこの日本という国が指定しているものなのですから、町や市、県の指定と比較すると規模が違いますからね。
多くの場合、そういったものは厳重な管理や監視が付き物で我々庶民はおいそれと近づくことができないばかりか、目にするのも苦労を有することがあります。
しかし、そんな国指定の美術品が盛岡の街中で気軽に見ることができるとなれば……皆さん、訪れてみたくはなりませんか?
今回はそんな貴重なものがある場所をご紹介します。
盛岡城下の歴史を語る擬宝珠
概要
盛岡の市街地……中津川(なかつがわ)にかかる上ノ橋(かみのはし)と中ノ橋(なかのはし)の欄干(らんかん)には青銅鋳物擬宝珠36個が付けられています。
擬宝珠とは伝統的な建築物の装飾で橋や神社、寺院の階段、廻縁の高欄(手すり、欄干)の柱の上に設けられている飾りのことで、ネギの花に似ていることから『葱台(そうだい)』とも称されています。
最も古いのは京都の三条大橋・五条大橋の一部にあるものです。
そんな貴重な擬宝珠ですが、上ノ橋の18個は『国の重要美術品』に……残りの擬宝珠は中ノ橋が洋式架橋された1912年(大正元年)11月に下ノ橋(しものはし)に移され『市の有形文化財』に指定されています。
この擬宝珠は盛岡こと盛岡城下建設の際に1609年(慶長14年)と1611年(慶長16年)に作られたものですが、その由来はさらに古く……約300年前の三戸南部家12代当主、南部遠江守政行(なんぶとうとうみのかみまさゆき)が在京中の頃まで遡ります。
政行が在京していたある年の春……鹿の鳴き声が将軍『足利義満』の北山御所のあたりで聞かれるようになりました。
将軍は季節外れの鳴き声は不吉である、として歌を詠むことで凶兆を抑えようと“春鹿”の題で広く歌を求めました。
政行はこれに応じ
春霞 秋立つ霧に まがわねば 想い忘れて 鹿や鳴くらん
(春霞の中にかすんで飛び去った雁は、今は秋霧の中で鳴いている)
と詠み、将軍へ献上しました。
将軍は大そう感心してその和歌を朝廷へ……その和歌を読んだ天皇もその秀歌ぶりに感嘆し、褒美として政行を左近衛少将に任じ、宝器”松風”を名付けられた硯(すずり)を下賜。
さらに加茂川の橋の擬宝珠を写すことの勅許(当時は勅許を得なければ橋の欄干に擬宝珠を飾ることはできなかった)を得て、領国三戸城(さんのへじょう)熊原川の橋に取り付け、黄金橋と称したと伝えられています。
その後、時代は進み……1598年(慶長3年)、南部利直(なんぶとしなお)が盛岡城普請に着手した折、城下建設の一歩として城下中央を流れる中津川の清流に上ノ橋(1609年(慶長14年))、中ノ橋(1611年(慶長16年))、下ノ橋(1612年(慶長17年))の三橋を建設。
上ノ橋と中ノ橋に擬宝珠を移しました。
しかし、中津川は北上川・雫石川の合流地点に注ぎこんでおり三川が落ち合って水勢・水量の変化が激しく、しばしば洪水見舞われ、落橋・流失を繰り返しました。
そのたびに不足した擬宝珠は鋳直して常に原数に復元され、寛政年間には上ノ橋に18個、中ノ橋に20個の擬宝珠が付けられていたと『篤焉家訓(とくえんかくん)』に記録されています。
現在、在銘しているものは上ノ橋17個、中ノ橋19個であり、原数より2個欠損していますが、いずれも藩政期の文化を表象するものとして、これほど多数に残っているのは大変珍しく、昭和20年には『国の重要美術品』に指定されました。
この指定には戦時における金属供出の対象から免れるために盛岡出身の郷土史家である太田孝太郎氏が尽力したという逸話も残っています。
アクセス
『上の橋擬宝珠』は『岩手県民会館(トーサイクラシックホール)』の先、『上の橋』にあります。
近くには『上の橋際のイチョウ』という大きな木もあるので、目印には困りません。
車で行く場合は近くに駐車する場所が無いので近隣の有料駐車場を使用することとなります。散歩ついでに立ち寄るのが良いでしょう。
なお、上の橋近くには駐車スペースがありますが、こちらは観光バス専用のものとなっているため一般の方は駐車できないのでご注意ください。
探勝レポート
それではさっそく探勝といきましょう!
今回は『上の橋際のイチョウ』を訪れたついでに立ち寄ります。

イチョウのすぐ近く……目と鼻の先に『上の橋』はあります。
昔ながらの橋の雰囲気が出ていますね。
私個人としては鉄筋の普通の橋よりもこちらのほうが風情があって好きです。
土台は普通の橋同様にコンクリートなので、都市観光開発の一部として盛岡市内の橋は全部このようにしても良いとは思っているんですけどね。

こちらが橋の入り口……天気も良いせいか、なんだか広々としており開放的に感じます。

こちらが件の擬宝珠……こうして見ると橋の装飾の一部として何気なく素通りしてしまいそうですが、これでも『国の重要美術品』……分かる人には分かるという代物です。
神は細部に宿る……という言葉がありますが、派手で大胆なものよりもこういった細かい部分に技術の粋を感じるのが大切なのでしょう。

橋の入り口の石碑には簡潔に上の橋擬宝珠の謂れが記載されています。

橋の上から中津川下流域を眺めます。
川のせせらぎに川沿いの自然と都市ならではの景観が上手く融合していて良い風景を作り出しています。
右手に見える『上の橋際のイチョウ』も良いアクセントになっていますね。
ちなみに左手の河原にはほんの数日前にツキノワグマが出没し、朝から全国ニュースに取り上げられ、警察が総勢で捕物劇を繰り広げた現場。
こんな身近に脅威はあるものですね。

こちらは橋から見た中津川の上流域。
この橋の近くには、かつて塩の道と呼ばれた『小本街道』と『野田街道』が通っていて、三陸北部の野田村で作られた塩は『南部牛方』と呼ばれる行商人たちによって牛の背に積まれ、盛岡へ運ばれていました。
しかし、重い塩袋を積んだ牛は橋板を傷めるという理由で上ノ橋を渡ることができず、橋の少し上流ある浅瀬を渡ったそうです。
その際、牛たちを河原に誘導するために作られた石畳の坂道が『牛越え場』として今も残っているとのこと。
今回は残念ながらその場所を見つけることはできませんでした……。

中津川沿いは遊歩道が整備されており、散歩やジョギングにはぴったりの場所。
川の熊さんと鉢合わせないよう、通る時は注意しましょう。

上ノ橋の近くにある緑地公園には、盛岡市出身の歌人である大西民子氏や詩人の田中冬二氏、山口青邨氏の詩歌碑が建てられています。
また、1613年(慶長18年)に城下となった盛岡に最初に移住した近江商人の村井新七氏を顕彰した『近江商人わらじ脱ぎ場』の碑もあり、歴史と文学が合流地となっています。

上の橋は直木賞作家である浅田次郎氏の代表作『壬生義士伝』の一場面にも登場します。
歴史小説が好きな方は聖地巡礼をしてみるのも良いかもしれません。

ところ変わって今度は橋の下へと移動します。
中津川は鮭が遡上する川として有名ですが、意外と水位は浅く夏に涼んだり水遊びをするには絶好の場所です。
さんさ踊りの日の暑気払いに良し、デートで静かに過ごすのも良し、怪しい話や密会をするのも良し……様々な場面で使うことができます。

最後に遠くから橋の全体を眺めましょう。
橋に付いている街灯も灯篭風で良いですね~。
欄干の木の造りもさることながら、江戸時代な気分をちょっぴりと味わうことができます。
おわりに
歴史ある街には歴史ある貴重なものが眠っている……改めて認識することができた探勝でした。
このような貴重な宝は昔から地域の人々の手により守り伝えられてきたもの……今度は私達がその役割を担わなければなりません。
永劫不変は無い、とは言いますが、尽力と努力により保つことができる……その証明を目にしてみるのも後学には良いでしょう。
皆さんも町の歴史と宝を探してみてはいかがでしょうか?





