備忘録

〖備忘録 第44譚〗罪と罰と免罪と贖罪

 おばんです、シードルです。

 最近、キリスト教関連の歴史について調べておりまして、その中に『贖宥状』というものがあったので、現代に通ずるところがあったので触れたいと思います。

『贖宥状』……簡単にいうと『免罪符』というもので「これがあればあなたの罪は免除されますよ!」というものですね。

 元々は歴史的にも有名な十字軍が従軍した人に行ったものが始まりで、従軍できないけど資金提供をした人にも同等のことを行いました。

 後に教会の経費獲得も兼ねて『贖宥状』というものを販売し、これが発端で宗教改革が起こったとされています。

 そりゃあ、熱心な信者からすればにわかのそれこそ信仰していない人達がお金だけで自分たちと同じ権利を得ることができるのだから、許せるはずがないですよね。

 けれど、似たようなものとして神社仏閣で販売されているお札や御守り、破魔矢などもありますし、宗教施設を維持するためにもお金が必要なわけでこれは仕方がないのです。

「地獄の沙汰も金次第」とはよく的を得ている言葉です。

 逆に意地悪なことを言ってしまえば「金さえあれば何をしても許される」といったところでしょう。やや暴論になってしまいますが……。

 傷害罪や交通違反……よほど悪質なものでなければ、ほとんどが点数を引かれ、犯罪歴が記録され、罰金を払うだけで良いものばかり。

 アメリカなんかはその典型的な例で法外な慰謝料や罰金を請求されますが、それを払えばすぐ釈放というをよく見かけます。

 日本ではここまでのことはあまり見かけませんが……仮にお金が無尽蔵にあり、点数や犯罪歴などを気にしない人であれば自分の嫌いな人やむかつく人を好きなだけ殴ったり、傷つけてもお金を払えば済む話しになります。

 お金が全てじゃない、ですがお金である程度の自由を買うことはできるわけです。

 罪と罰とは意外と釣り合わないものですね。

 これを分かりやすくしたもので『トロッコ問題』というのがあります。

 皆さんも聞いたことがあるであろう「一人を犠牲にするか、五人を犠牲にするか」といった哲学におけるジレンマのアレです。

 これは自分の価値観か他人の価値観……どちらを優先にするかといったもので、明確な答えがないものです。

 起こす前に悩む……このような状態ならまだ分かりますが、近年ではこの逆バージョンの事件が多いわけです。

「障害を持つ人はこの世にとって不利益だから自分が代わりにやった」

「アイツはクラスのみんなも嫌がっていた。だから追い出した自分は正当だ」

と、いった主張の数々……人を一人傷つけて追い込んだとしても当の本人は「アイツは仕事ではなにも成績が残せず無能だった。自分は優秀な成績を残しているのだから消えるべきは向こうだ」など。

 こう聞けば「こいつは何を言ってるんだ?」と多くの人は憤りますが、実際その場を目の当たりにすると「職場は仕事をする場所だから、できない人はあんなことをされても仕方が無い」と見て見ぬフリをするのがほとんどです。

 会社という組織ではそれが顕著に現れ、たとえ人間性に問題があり大多数の人から嫌われてもその人が大多数分の実績を残していれば、リストラや異動の際はその人をリストから外すというのはよくある話しです。

 まぁ、ビジネスとは非情ですし能力が優秀な人を手元に残すのは社会の構造上仕方がないでしょう。やり方については否定しません。(ただ、私の経験上……このような会社は成長や新規開拓における変化の見込みがなく自然淘汰されていくものです)

 こんな感じで世の中大多数は多い方(他者を優先)することを善とし、一人の犠牲はやむなし……という考えです。

 厳しい指導で部下や教え子がやめても「これくらい昔は当然だった。俺も受けてきた。これぐらいで去るなら世の中に出た時に苦しむのはアイツだ。今やめさせてよかったよ」と自身の行いを正当化し、反省しない……そんな人がだいぶ増えてきたなぁ、と感じます。

 こんなことを書いていると心優しい人は辛くなると思いますが……でも、安心してください。

 辛くなった人は心が強い方ですし、何もおかしくありません。

 それにどことなく違和感を感じませんか?

 そう、いずれも自ら『主張』しているのです。

 自分の突発的に起こしたことに責任を持てず、その現実を受け止めることができない……自身の弱さと向き合えない、その結果『主張』して守ろうとし、正当化する人達です。

 この世というのは犯した罪に対して罰が釣り合っていない世界です。

 かといって自身は多くの人の役に立っているから、少数の人を傷つけて苦しめて良いという理由にはなりません。

 物質や目に見える形での免罪や贖罪はあるのでしょうが、多くの場合は許されていないのです。

 本当に許された時というのは『被害を受けた相手が許し、自身も行いを反省し、自らの犯した過ちが二度と発生しないよう自他ともに予防すること』です。

 第三者や自分が許した、反省したというのは所詮自己満足……それを『前向きな考え』とか『気にしない心持ち』の一言で簡単に済ませないでほしいものです。

 他者と向き合い、自身と向き合う……その意識が今の時代には特に必要なことだと思います。

 

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