備忘録

〖備忘録 第77譚〗自責、他責……それぞれにおける影響

 おばんです、シードルです。

 なにかトラブルが起きた時……皆さんはその責任の所在をどこに求めるでしょうか?

「このトラブルは自分が関わったから自分に非がある……」という自責思考の人もいれば………「いいや、自分は悪くない。あいつが悪いんだ!」と他責思考の人もいると思います。

 昨今の自己啓発本では自責思考は世の中の不条理をフラットに捉え、生きやすくなる……とされ、なんでもかんでも自分に原因がある、と思った方が良いという傾向にありますが……果たしてそれは良いといえるのか、私は疑問に思います。

 もちろん、何でもかんでも人のせいにするというのは良くありません。

 自分に非がない、と一片も思っていない場合……同じ過ちを再び繰り返し、全く成長していないということになります。

 間違う度に怒り、人のせいにして、また間違う……もう負の無限ループ。

 恐らく、自己啓発本においてはこの悪循環ともいえる輪廻を抜け出すために自責思考の考えが良いと説いているのでしょうが……これはある意味で別の危険を孕んでいます。

「自分が全部悪い」「自分さえ我慢すれば良い」……そういう考えに至り、自分に期待せずあるがままを受け入れる…………そうなると今度は「何をしても無駄」という考えに辿り着き、何も行動せず気力も湧かなくなる。

 これも一種の成長を阻害する要因です。

 すなわち、行き過ぎてしまえばどちらも変わらないということになります。

 それでも人によっては「だって、人は自分の過ちを認めないじゃないか! それなら自分が先に認めた方が楽だし、そっちの方が大人な考えだ!」というかもしれません。

 確かに他人…………しかも経験を積んだ大人ほど他人の意見で変わり、自らの過ちを認めるというのは滅多にありません。

 そもそも人というのは他人がどれほどアドバイスをしようが、自身が本気で変わりたい! とか状況を打破したい! と心の中で思っていない限り、たとえ助言が有益だったとしても聞き入れません。

 他人の意見ですぐさま取り入れる場合は『即効性』があり『利益』があり、なおかつ『楽』にできるものなら話しは別ですが、時間と労力が掛かり、自身にとっての利益が不透明なものに関しては取り入れづらい…………皆さんもそうではないでしょうか?

 少なくとも私はそういうタイプです。

 それは人生経験という名のプライドが邪魔をしているからともいえます。

 そう考えると小学生くらいの子供の方がまだ素直に意見を聞き入れ、過ちを認めることに長けているでしょう。

 けれども、自分が引くことが大人…………本当にそうでしょうか?

 強大な力や理不尽に自分が遭っているなら、百歩譲ってそれでも良いかもしれませんが…………人間とは自分が『正』だと認識すると助長しやすい傾向があります。

 自分の経験、意見が通ったとなれば「それ見たことか!」と裏付けられ、自信がつくからです。

 自信がつくことは良いことですが、それが誤りだと気づかない場合は相手は非を認めたところで何とも思いません。

 それどころか、それ以降も同じことを繰り返したり変な自信がついていずれ大きな事件を引き起こすことになりかねません。

 ですから、自責で腑に落とすのも良いですが筋が通り、それは違うだろうという場合は言い分を主張することもまた大事なのです。

 それもいずれ相手にとっては巡り巡って良いきっかけになりますからね。

 相手の我儘を全部受け入れ何も言わない…………それを人は『器が大きい』とか『大人だ』ともてはやしますが、一方から見たら「言っても無駄だ」と諦めて何も言わない、ということでもあるのです。

 健康や食事、運動もそうですが、思考においても極端な偏りは身を滅ぼし、状況によっては他人も苦しめる…………ほどほどを保つことを意識するのが大事なのかもしれませんね。

 

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