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馬事文化を伝える親子馬の像【盛岡市‖盛岡馬っこ文化伝承広場】

 馬産地として名高い岩手は『南部駒』や人馬一体が暮らす『南部曲がり屋』など馬を特に大切にする文化が根付いています。

 昔は農耕や林業において欠かせない馬の存在も時代や機械化により、段々と役割が減ってきており、乗馬や競馬といった娯楽の面で主に活躍するようになってきました。

 私もですが、昔の馬による文化について詳しく知らないというのが現状です。

 今回はそんな馬事文化の一端を知ることができる盛岡市にある広場についてご紹介します。

旧馬検場跡に佇む親子馬像

概要

 盛岡市松尾町……市街地の中に『馬検場』と書かれた巨大な看板と親子馬の像が存在感を放つ一角があります。

 ここにはかつて『盛岡畜産会館』『馬検場』があった場所。

『馬検場』とは馬のせり売りを行うために検査や予防接種などを行っていた所で、かつて盛岡の清水町と肴町、南大通り一帯は『馬町』といわれるほど、全国的に有名な『馬市』が行われていました。

 その馬市が初めて行われたのが江戸時代頃というから、かなり驚きです。

 現在は馬検場も無くなり、その面影はほとんど行っていませんが……その大切な歴史を後世に伝える場所として現在は『盛岡馬っこ文化伝承広場』という形で残っています。

アクセス

『盛岡馬っこ文化伝承広場』は松尾町にある『日本年金機構 盛岡年金事務所』のすぐ隣にあります。

 近くには街中に湧く清水の『大慈清水』『十六羅漢像』のある『らかん児童公園』を始め、『盛岡八幡宮』などもありますので、散策コースにはぴったりです。

 専用駐車場はなく、車を駐車する際は近隣にある有料駐車場を利用することになります。

 また、周辺は道路が狭いため運転する際は事故などにお気をつけください。

探勝レポート

 それではさっそく探勝といきましょう!

 今回は近くにある有料駐車場に車を停め、スタート。

 ちょうど、確定申告に必要な年金関連の書類を取りに行く用事があったのでちょうど良かったです。

広場 全体

 こちらが『盛岡馬っこ文化伝承広場』です。

 こじんまりとした一角ですが人工芝も敷かれており、新しく感じます。

 調べてみると2020年11月頃に完成されたとのことで、まだ10年も経っていないようです。

 一応、ベンチの代わりなのか丸椅子が二脚置いてありますが、雨風にさらされていたためか少しボロボロです。

看板周囲

 隣にある『年金事務所』とはフェンスを挟んでギリギリの場所にあります。

 看板の隣には田中角栄元総理や鈴木善幸元総理に関する記事が貼られており、馬っこと各元総理との関係が説明されています。

 岩手は総理大臣と縁が深い県だと改めて感じます。

 それとも良い総理には馬と何かしら関連があるものなのか……真相は定かではありますが、ゲンを担ぐ意味でも総理になられる方は一度岩手を訪れるのも良いかもしれません。

大看板

 そんな看板の後ろにはかなり目立つ大看板が設置されております。

 この看板についての由来は隣にある説明書きに明記されています。

説明書き

 この画像の距離では少々見えづらいので、以下にその内容を引用させていただきます。

 かつて、この場所には「馬検場」が置かれており、新渡戸仙岳の揮毫による大看板が掲げられていた。大きさは、幅 458㎝、高さ 182㎝、厚さ 12㎝にもなる。

 馬検場とは、馬に関する検査施設や予防接種などの衛生施設、馬のせり売りを行う施設として、複合的な機能を有した施設である。

 古くから岩手は馬産地として有名だった。盛岡で馬市が初めて開催されたのは江戸時代の万治元年(1658)で、馬のせり売りは馬町(現在の南大通二丁目、清水町、肴町の一帯)で行われていた。明治23年(1890)に盛岡産馬畜産組合が設立され、馬検場が作られると、盛岡の馬市は全国に知られるようになっていく。

 明治37年(1904)には、馬町に新しい馬検場が落成。新渡戸仙岳揮毫の大看板が取り付けられたのはこのときである。その後、富国強兵の政策や、日清・日露戦争など政府の馬政計画の影響で、盛岡産の馬への注目が増し、需要の高まりを見せると、より広い敷地が必要となった。これにより、明治45年(1912)に大看板とともにこの地へ馬検場が移され、この付近は「新馬町」と呼ばれるようになる。最盛期の大正後期には、2千坪ほどの広大な敷地で年間約9万頭の馬が取引された。また、黒澤明が助監督を務めた映画「馬」の撮影地にもなり、昭和15年(1940)に行われた撮影の際は、数千人の群衆で溢れかえったという。

 この馬検場は、近代建築の思想を取り入れた大屋根を持つ吹き通しの馬検施設に、下見板張りの外壁に縦長両開きの窓が特徴的な洋風2階建の事務管理棟が附設していた。平成8年(1996)に馬検場としての役割を終え、しばらくの間保存されていたが、老朽化に伴い、平成30年(2018)2月、惜しまれながら解体された。この大看板は、在りし日の馬検場を偲ばせるものであり、また、馬事文化の歴史を後世に伝える貴重な遺産である。

引用元:大看板の説明より

 新渡戸仙岳とは説明書きの左下にある顔写真の人で、1858年(安政5年)、馬町にて峯寿院(ほうじゅいん)住職の長男として生まれ、盛岡高等小学校(現:下橋中学校)校長、盛岡高等女学校(現:盛岡第二高等学校)校長を歴任しており、盛岡高等小学校時代の教え子には、米内光政や金田一京介、石川啄木らがいたそうです。

 ちなみに『新渡戸』姓から私はあの『新渡戸稲造』と何か深い関わりがあるのか、と思って調べてみましたが……特段、深い関わりはなく寧ろ教え子であった石川啄木の世話を色々と焼いていたようでした。

 ですが、新渡戸稲造が文久2年8月3日(1862年9月1日)の生まれなので、同じ新渡戸一族であったなら出会っていたのかもしれません。

親子馬の像

 続いては気になっている親子馬の像を見てみましょう。

 二頭の馬が寄り添っている姿はなんとも美しいですね。

春風

 この像は『春風』というらしく、かつては盛岡の神明町にあった『競馬会館』という場所にありました。

 後にその場所に『盛岡市保健所』を開設することになり、旧馬検場近くにあった盛岡畜産会館へ移転……その後さらに旧馬検場と盛岡畜産会館が解体されることになり、再び移転。

 跡地にICSが移転新築工事の間をするまでの間、保管され……工事が終わり、この広場が出来たことによってようやく現在地へと落ち着きました。

 度重なる引っ越しの繰り返し……けれども、像を見る限りではとても綺麗で大切に扱われていたことがよく分かります。

春風後ろの記事

 像の後ろには『めんこい子馬』の歌詞をはじめ、様々な広報記事が貼ってあります。

 岩手が誇った馬事文化の歴史……いつまでも伝えていってもらいたいものですね。

おわりに

 馬っこの陰に偉人の姿あり、と馬事文化の歴史を見ていく内に知ることができました。

 有名な人物たちが自分たちの郷土に関わっているということを聞くとなんだか嬉しく思いますね。

 文献や物として、かつて栄華のあった歴史は語り継ぎ残っていきます。

 もしかすると、長い年月を経て失われたものが何かの拍子で蘇る時がくるかもしれません。

 そのためにも今を生きる私達は記憶や記録に残し、伝えていく責務があるのかもしれません。

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