四国旅/香川(金比羅宮・善通寺・琴弾八幡宮・銭形砂絵/②)【シードル旅行記】
前回のあらすじ……
岩手から生まれて初めての四国へ上陸した私シードル。
到着して早々に丸亀名物のお城やグルメを堪能し、悪くないスタートを切ることに成功。
そんな中、着々と近づいてくる梅雨の気配……徳島方面へと行くか、それとも愛媛方面へ向かうか……私の選んだ行く先は果たして?
試練多きこんぴらさん
5/13、朝7時頃……丸亀駅にて『四国フリーきっぷ』を購入。
この切符は3日間JR四国の全線自由席、土佐くろしお線と四国バスが乗り放題となる優れもの。
ただし、料金は18,000円で特急を使う場合は別途指定席料金が必要となります。
この切符を手にして私が向かった先は……

丸亀からほど近い所にある『琴平駅』
この駅名から私の最初の目的地がどこか……おそらくピンと来た方もいるのではないでしょうか?

表参道
早朝の清々しい空気を浴び、澄み切った青空の下……その目的地へと向かっていきます。
いやぁ、しかし梅雨時期前にこんな良い天気に巡り会えるとは幸運ですね。

道中には巨大な灯篭や鳥居などがあり、歴史的建造物が豊富。
どれも年季が入っており、歴史・神社好きにはたまらない光景となっています。


そんな道中には建造物のほか、歴史がありそうなお店も軒を連ねています。
ここまで来れば私が何をしに行こうか、もうだいたい分かりましたかね?

その目的地の最初の入り口ともいえる場所に到着。
この長そうな石段と傍にある露店の『こんぴら』という文字……はい、そうです。
私の最初の目的……それは金刀比羅宮への『金比羅詣り』です!
金刀比羅宮とは、香川県琴平町の象頭山に鎮座する神社。
そのご神徳は昔から知られており、庶民が旅行を禁止されていた江戸時代においても三重県の伊勢神宮への『お伊勢参り』、京都六条にある東西本願寺への参拝と並び、一生に一度は参るべき場所として知られています。
ついに、私も一生に一度のお参りをするべき時がきた、というわけです。

細い路地に石畳……吸い込まれそうな空間に奥へ誘われるように石段が続いています。
普段ならここも人で溢れかえるでしょうが、今はまだ9時前……とても閑静です。
なんだか『千と千尋の神隠し』にでも出てきそうな風景ですね。

駅からだいぶ歩き、ようやく正式な表参道へ到着。
この表参道から金刀比羅宮の御本宮まで延々と長く険しい石段が続いています。
まさに修練の国、四国の本領発揮といえるでしょう。
ただ、この鳥居周辺はうどん屋さんや土産物屋がたくさんあり、観ているのも楽しいので現在のところ楽しさが勝って疲労は感じられません。
……まだ営業前の準備中ですけどね。

鳥居から始まる長く急な坂は『一之坂』と呼ばれます。
こちらの石段は約113段……数字で見ると大したことがないように感じられますが、実際に上がってみるとそこそこ体力を消費します。
けれど、私はまだまだ元気ですよ!

坂を上がりきり『大門』前で振り返ってみます。
駅からだいぶ歩いてきた筈なんですが、坂しか見えません……。
一体、どれだけ長いんだ……ここまでで既に達成感はありますが、帰りもこの道を通って駅へ戻ることを考えると少しばかり思う所があります。
まぁ、これが金比羅詣りの醍醐味なのでしょう。
……まだ境内に入る前ですが。

この『大門』は金刀比羅宮の総門で讃岐国、高松藩主の松平頼重から寄進されました。
ちなみに松平頼重はあの『水戸黄門』で知られる水戸光圀のお兄さんでもあります。
楼上に揚げられた『琴平山』の額は、有栖川宮熾仁親王殿下の御筆。
そして、この門から先が金比羅宮の境内であり神域……国の名勝・天然記念物に指定されているうえ『瀬戸内海国立公園』に含まれている色々と畏れ多い場所であります。
襟元を正し、背筋を伸ばし、心して門をくぐります。

境内
大門を抜け、すぐ傍にあるのが『金刀比羅本教総本部』です。
金刀比羅本教総本部では金刀比羅大神を主祭神とし、全国で信者を教化育成する教師の講習会などを開催しているそうです。
金刀比羅本教の教祖、金毘羅大権現の第4代別当職であった金剛坊宥盛(厳魂彦命)は、遠く東北地方まで国内を巡りながら金刀比羅大神の御神徳を広め、多くの人々の救済に生涯をささげたとのこと。
社のような、道場のような佇まいです。

本部へお参りを済ませ、参道に戻ります。
大門から続くこの石畳の道は『桜馬場』と呼ばれ、春になると道の両側から桜が枝を交える花見の名所。
参道の両脇には傘を広げた露店が二店舗……それぞれどちらも『こんぴら飴』という鼈甲色の飴を売っていました。
そこのお店の方から試食用の飴を頂きながら、この先の本宮について情報取集。
ちなみに飴は色合いの綺麗さも相まって、柚子油が練りこまれており、爽やかな柑橘の風味が疲れを癒す美味しさでした。
さて、聞いた話しによると……本宮までは片道30分で誰でも簡単に行けるが、その先の奥宮まではあまり行く人がいないとのこと。
ただ、一番御利益を頂けるのは奥宮参拝でこの辺りの子供達は幼稚園から小学校まで、みんな奥宮参拝をするほど恒例になっているので、もし時間と体力があるなら是非とも行った方が良いと教えられました。
飴の御馳走と情報にお礼を述べ、帰りにまた寄ることを約束し、先へ……。
後日、知ったことなのですが……この入り口で店を構えている人達は『五人百姓』と呼ばれている人で、こんぴらさんへの功労があった先祖をもつ五家の特別な家筋の方々。
その五人百姓の特権として……通常は禁止されている神域「大門の内側で販売することができる」という権利を持っているそうです。
ただし、何でもかんでも売って良いわけではなく、販売できるのはこんぴら飴こと『加美代飴』のみ。
この加美代飴は先ほど触れた通り、澄んだ鼈甲色で扇の形をした飴ですが、意外と厚く、購入した際は同封されている小さいゴールデンハンマーを使って割って食べます。
なぜ割って食べるのか……それは「御利益の御裾分け」だそうで、金比羅詣りに行った人がお土産としてこの飴を購入し、飴を割って配ることでそれを食べた人にも御利益が得られるのだそうです。面白いですね~。
確かに神社の例大祭などの縁日で境内に出店があるのを普通と思っていましたが、よく考えれば境内は神域なので、そこで普通に商売をやっている方が変なんですよね……。
こういう認識を改められると「やっぱり旅って良いなぁ」と思います。

綺麗に整備された石畳の参道を歩いていきます。
隣にずらっと並んでいる石碑は奉賛した人の名前と金額が記銘されていました。
昔から、多くの人達が篤く信仰しているのが見てとれます。
もし、後世に自分の名前を残したい……けど、有名になれる要素がない、と考える人がいるならば神社の改修などの際に多額の寄進を行なえば、このように名を残すことができますよ。
もっとも、寄進して下さる方々は私のような邪な考えなどハナから無いのでしょうけど……。

石段、石碑、石畳……先へ進めば進むほど石の密度は多くなります。
ここはストーンワールドか?
そして、まだまだ続く坂……流石に少し疲れてきました。
四国はお遍路だけでなく、神社参拝でも修練を求められているようです。

途中なんだか立派な建物を発見。
こちらは『社務所門』…書院の入口です。
その昔、社務所が書院に付属していた頃の名残で奥にある書院では円山応挙の襖絵などを見ることができるそう。
私の場合は来た時間が早すぎたのか、まだ開いている気配がありませんでした。

ただ、傍にある虎の絵を見るに相当立派なのでしょうね。
見てみたかったなぁ……。

まだまだ続く石畳の参道……木漏れ日の中の参拝はなんだか気持ちが良いものです。

ようやく中盤まで来たでしょうか?
ここには馬が祀っている社や立派な銅像がありました。
こちらでは神様が乗る『神馬』を祀られています。
昔は奉納するものとして馬が使われていましたが、時代が進むにつれて生きた馬ではなく銅像や絵が奉納されてきました。
それが今日の受験生でお馴染みな『絵馬』の起源となります。


ここまで来ると徐々に色々な社が出迎えてくれます。
こちらにあるのは『祓戸社・火雷社』
祓戸社は神社参拝において先にお参りし、心身の穢れを禊祓う社……現在の手水舎の神社バージョンです。
祓戸社の御祭神は、瀨織津姫神・速秋津姫神・気吹戸主神・速佐須良姫神で、いずれも罪穢を祓い清める神様となっています。
もう1社の火雷社には、火産靈神・奥津比古神・奥津比賣神と合わせて八衢比古神・八衢比賣神・來名戸神が一緒に祀られており、いずれも鎮火・消防、疫病を防ぎ止める神様です。
心落ちつかせてお参りし、心身の穢れを祓い清め、焼き尽くして頂きます。

お参りを済ませると近くには明らかに存在感が違う大社が!
ついに本宮か……と思いましたが、こちらは『旭社』と呼ばれる別のお社でした。
旭社の御祭神は、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・天照大御神・天津神・国津神・八百万神。
祀られている神様が多くて混乱してしまいますが、まとめると宇宙、天上、地上……ありとあらゆる全ての神様を祀っているようです。
こちらの大きな社殿は、40年の歳月をかけて弘化2年(1845)完成され、上層の屋根裏には巻雲、柱間・扉には人物・鳥獣・草花の彫刻と豪華な装飾が施されています。
天保時代における、ありとあらゆる芸術の集大成といえるでしょう。
楼上にある『降神觀』の額は、清国の翰林院侍讀探花及第王文治の筆で、劉雲臺が献納したもの……『旭社』の扁額は、正二位綾小路有長の筆とのこと……。
あらゆる神々を祀る社にはあらゆる美で装飾されている……もうスケールが大きすぎて訳が分かりませんね。
後ほど知ったことですが、この『旭社』は金比羅宮の本宮をお参りした帰りに最後に詣でるらしく(こちらの社の方が位の高い神々が祀られているため……)、自身の情報収集の甘さを認識しました。反省……。

肉体的疲労と情報量が多いので少し休憩をします。
地図を見ると本宮はもうすぐそこ……もうひと踏ん張りです。

足に喝を入れて、先へ進むと立ちはだかるはまたもや長くて急な石段……壁は長くて遠い。
ここは『御前四段坂』と呼ばれ、133段の石段があります。
少し嫌らしいのが各数十段が4段階に分けられていること……僅かな踊り場で休憩ができると考えるべきでしょうが、これまでの経験上ではこういう途中で平地になっている箇所は上がる際にリズムが崩れて、疲労が強くなる傾向にあります。
なんせ、難攻不落の城跡を訪れた折りにこうすることによって攻めづらくなることを身をもって知りましたからね。
まぁ、そんな意図は神社側には無いのでしょうが……。
とはいえ、ここを上りきれば待ちに待った本宮。
途中にある御年神社と事知神社にもお参りし、気合で上がります。

坂を上がり、ようやく目的地である金比羅宮の本宮へと到着。
長かった……とっても長かった……! まだ午前だけど……。
さっそくお参りをし、改めて周囲を散策。

〝こんぴらさん〟の名で親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう)本宮は重要文化財に指定されており、石段では785段目……高さにおいては海抜251メートル……琴平山こと象頭山の中腹にに鎮座しています。
その御祭神は、大物主神と崇徳天皇で古来から農業・殖産・医薬・海上守護の神として仰がれています。
海に囲まれた四国においては必須の御利益ですね。
そんな本宮の社殿の創建については明らかになっておらず……長保3年(1001年)に一條天皇が藤原實秋に勅し社殿を改築したことまでは分かっています。
その後、元亀4年(1573年)の改築……天正年間(1573-1592年)の長曽我部元親による再営、万治2年(1659年)の讃岐国高松藩主である松平頼重による改築、明治11年(1878年)の改築を経て現在の社殿になったといわれています。

初めは大物主神を祀り、後に琴平神社と称しておりましたが、後々になって『本地垂迹説(日本の神々は仏や菩薩の仮の姿(垂迹)であり、その本来の姿(本地)は仏や菩薩であるとする思想)』の影響を受けて『金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)』と改称し、永万元年(1165年)……相殿に崇徳天皇を合祀しました。
大物主神とは、天照大御神の弟である建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で、農業・殖産・医薬・海上守護などのご神徳を有する神様です。

『神代の琴平山』〔琴陵光熈、金刀比羅宮社務所文事課、昭和16年(1941年)〕という書物によると……
神代の昔琴平附近は海岸で、今の琴平の地は良い港であつた。それ故 大物主大神(大國主神)が國土御經營に當り此良地勢を利用せられ山上に行宮を造らせ給ひ、之を策源の中心として表日本を御經營遊ばされたのである。其行宮の蹟に神靈を鎭祭し奉つたのが即ち金刀比羅宮である
との伝説があり……つまり、日本の古代神話の時代である神代において、琴平山は瀬戸内海に浮かぶ島で、そこに大物主神は行宮を造られたとされています。
現在も、琴平山の鬱蒼とした森の各所には、古の遺跡と思われる場所があり、境内のそこかしこで当時の様子を知ることができます。
崇徳天皇〔元永2年-長寛2年(1119-1164年)〕とは、第75代天皇で、諱(いみな)は顕仁。
保元の乱〔保元元年(1156年)〕の後に讃岐国(現在の香川県)にて金毘羅大権現を崇敬し、境内の『古籠所』に参籠されたとされ、その付近の『御所之尾』を行宮にされた、と伝えられています。
この地で崩御された翌年の永万元年(1165年)に金毘羅大権現は現在の象頭山に神霊を迎えて、相殿に崇徳天皇を奉斎してからは神威は、以前にも増したとされています。
きっと相性が良かったんでしょうね。

金毘羅大権現は歴代朝廷の尊崇を受け、また諸国の大名武将から一般庶民に至るまで広く信仰され、全国的な航路の発展とともに航海者の信心をも集め、全国に勧請。
結果『金毘羅講』が各地におこり、一際有名になっていったというわけです。
江戸時代から続く金毘羅詣りもこうして現代まで続き、東北に住む私までこの地を訪れることになったのですから……縁とは侮れず、不思議なものですね。

こちらは『御別宮』とも呼ばれる『三穂津姫社』
本宮祭神である大物主神の后にあたる高皇産霊神の娘、三穂津姫神が祀られています。
しかし、本殿に負けず劣らず、社殿が立派な造りです。

本殿周辺は開放的で休憩に適しています。
少しベンチと木陰で一休み……なびく風がまた気持ちいい。

象頭山の中腹に鎮座しているだけあり、眺めは非常に最高です!
良すぎるあまり遠くの方は霞んでしまうほど……。
しかし、あの平地からここまで自分の足で上ってきたんだなぁ、と思うとなんだか信じられない気分です。
私自身、山登りをした覚えは無いのですが……。

本当に昔は瀬戸内海に浮かぶ島だったのかと疑いたくなるほど、周囲には山と森と平地の街が広がっています。
確かにはるか遠くの方に海が見えるような気が……。
地震などによる地殻変動によるものでしょうか?
長い年月をかければ海もまた陸地になる……時の流れと自然の力は凄まじいものですね。

奥社へ……
さて、そろそろ奥宮へと参りましょうか。
本宮の向かって右側、展望台から続く道の鳥居が、厳魂神社こと『奥社』への参道の入口となっています。
本宮から奥社までの距離は約1.2キロメートル、石段は全583段……。
また上がるのか……
奥宮参道を進み、最初に差し掛かるは『真井橋(まないばし)』
『真井渓(まないだに)』に架かる赤色の橋で、上流には明治37年(1904年)に作られた防火用水源の真井貯水池があります。
ここまでの山中だと水は限られるわけですから貴重なものですね。
それにしても高千穂峡といい、神様が関わる所には“真井”という字が使われますね。

橋を渡って先へ進むと、続いて現れるのは『白峰神社』
白峰神社の御祭神は先ほど紹介した崇徳天皇です。
こちらの相殿には母である待賢門院(たいけんもんいん)と、山の神として信仰されている大山祇神(おおやまつみのかみ)の二柱が祀られており、また随神として源爲義(みなもとのためよし)と源爲朝(みなもとのためとも)の木像が安置されています。
森の中に突如として現れる立派な社は荘厳な雰囲気が漂っていますね。

こちらの参道にも変わったものが見受けられます。
石の神ならぬ亀が甲羅の上に背負っているのは石柱……美術館とかにこういうモニュメントありそうですね。

山中の石段は急で長いわけではなく、寧ろ今まで上がってきた石段の中でも歩きやすい方……しかし、曲がりくねった部分が見えないので、なにぶん先が分からない。
このうような道で横からイノシシや熊に襲撃されたらあっという間に崖下でしょう。
この山に生息しているかは分かりませんが……。

道中で見かけたこちらの神社は『菅原神社(すがわらじんじゃ)』
名前から察しがつく方もいると思いますが、御祭神はご存知……菅原道真命。
実は讃岐守(さぬきのかみ)でもあった菅原道真……例に漏れず、学問や至誠の神様として信仰されています。

歩いてどれくらいの時間が経ったでしょうか……疲れがいよいよピークに達してきた頃、ようやく参道の先に鳥居と社が見えてきました。
人だかりもいてようやくゴールのようです!
あぁ……ようやく着いた。

到着して早々、忘れないよう真っ先にお参りを済ませ、じっくりと探索。
ここは金比羅宮の石段1,368段目にあたる山中で、金刀比羅本教の教祖である厳魂彦命を祀る奥社こと『厳魂神社(いづたまじんじゃ)』
厳魂彦命は、戦国時代に生駒家の家臣の子として生まれ、早くから和漢神仏の学を修め、『宥盛』と称して高野山で修行し、象頭山金毘羅大権現別当金光院主となり、戦国の兵火により荒廃した金毘羅大権現の再興に尽力……金毘羅信仰の発展の礎を築いた人物です。
慶長18年(1613年)に「死して永く当山を守護せん」と言い残し、天狗と化して忽然と姿を消したと伝えられており、後に金毘羅大権現の守護神『金剛坊』として祀られました。

この場所の海抜は421メートル。
厳魂神社は本宮の方角に向けて見守るように建てられているそう。
ここまで来るとあまりにも絶景すぎて街が豆粒のようになっています。
いやぁ~、ほんと……我ながらよくここまで上がったものです。心の中はやり切った達成感で満たされています。
夢中になっていると色々と気が付かないものですね。
ただ、果たして駅まで帰れる体力は残っているのだろうか……なんだか少し怖くなってきました。

厳魂神社は讃岐岩質安山岩の急斜面に鎮座しており、この崖を『威徳巖(いとくのいわ)』といいます。
厳魂彦命が参籠された旧跡で、崇徳天皇も参籠されたのではないかと伝えられています。
断崖の上方には天狗とカラス天狗の彫物がありますが……この位置で分かった方、いますか?

私はなかなか見つけられず、しばらく目を凝らしてようやく見つけることが出来ました。
ヒントは真ん中の茶色い岩肌……黄緑色と緑色の葉の間です。
見つけられたでしょうか?
いや、しかし……どうやって作ったのかもさることながら、どうやってあの場所まで行ったのでしょう?

こちらにある社務所では限定で特別の御朱印と御守を頂くことができます。
改めて思いますが、遠足などでここを訪れるこの辺りの幼稚園から小学校までの子供達……体力ありすぎだろう⁉
讃岐キッズは老いても足腰が丈夫そうですね。

実はこの日……奥宮への参道には数多の消防士や警察の方々がいて、戻る際はヘリによる救助が行われていました。
神聖な境内で事件か! 事故か!
ご安心ください。レスキュー訓練だったようです。
しかし、この風景を間近で見られるのもある意味で貴重……神様の御利益でしょうか?
何はともあれ、これなら奥社参りで動けなくなっても安心ですね。

徐々に俗世へ戻る
山中で待機していた消防の方々の一団に混じりながら、本宮まで帰還。
人だかりは苦手ですが、人の気があると少しホッとします。

そろそろ良い時間になりそうなので、名残惜しいですが下界へ戻ることとしましょう。
またここに来られるように、老いても歩けますように……。

境内には珍しいものが奉納されています。
こちらは航空機のプロペラ。
空の航路の安全を願ってのものでしょうか?
確かに、海路や陸路以外にも空路という移動手段のある現代においてはそちらへの御利益がある神社も必要かもしれません。
それにしてもデッカイ……。

参道脇にある犬の像は『こんぴら狗』
金毘羅講が流行った江戸時代ですが……現代と違って交通網が多彩でなかった当時においては江戸を中心とした東日本の各地から金比羅宮への参拝の旅は大変なことで、当人に代わって旅慣れた人が代理で参拝に行くことがありました。
これを『代参』といいます。
この代参でも旅を途中で諦めることにした人が、道中で知り合った旅人に旅費と初穂料を託し、二重で代参してもらうこともあったようです。
この代参で有名なのが森石松で、清水次郎長(山本長五郎)の代わりに参拝し、預かった刀を奉納したと伝えられています。
さて、話しはこんぴら狗へと戻りますが……実は代参をしたのは“人”だけではなく『こんぴら参り』と記した袋を首にかけた犬が、飼い主の代わりに参拝をすることもあったのです。
盲導犬の参拝バージョンというわけですね。
首にかけた袋には、飼い主を記した木札、初穂料、道中の食費などが入っており……犬は、旅人から旅人へと連れられ、街道筋の人々に世話をされながら目的地にたどり着いたのだそうです。
つまり、この『こんぴら参り』の代参をした犬はが『こんぴら狗』というわけです。
現在では寺社の敷地内にペットを連れて行くことが禁忌とされていますが、ここ金比羅宮では例外で私が参拝した時も立派なワンちゃんが急な石段を飼い主さんと共に上がっていました。
いやぁ~、人も犬も関係ない!
日本の良い風習ですね。見ていて心が穏やかになりました。

大門前まで戻り、飴をくれた方に奥宮参拝をしたことを報告すると私のことを覚えて下さっていたようで、御褒美にまたこんぴら飴を下さいました。
そのお礼も兼ねて微力ながら私も飴を正式購入させて頂きました。

こちらが購入したこんぴら飴……裏側にはこんぴら飴と五人百姓について記載されています。

中には飴と金の小槌が入っています。

この小槌で飴を割り、みんなで仲良く分けて食べることで金比羅宮の御利益を頂くことができる、というわけです。

二度も飴を御馳走して下さり、ありがとうございます。
気付けば、店が開き始めている参道は多くの人達で賑わっていました。
中にはこれからお参りをする人、小型犬のこんぴら狗、お遍路さんに托鉢をする僧侶の方々など様々……旅は始まったばかりですが、今回もなんだか面白く……そして人の縁に巡りそうな気がしてきました。

そして、こちらは金比羅宮の御朱印帳になります。
金で装飾されていながらもどこか煌びやかで美しい気品を感じます。

金比羅宮では直書きの御朱印はなく、全てが書置きです。
ただし、例外として御朱印帳を購入した際はその中に直書きされています。
「しあわせさん、こんぴらさん」
実に良いフレーズです。
対応してくださった方々、そして縁を結んでくださった方々……ありがとうございます!

お大師様生誕の地
さて、金比羅宮から琴平駅へと戻ると時刻はお昼頃……本当はゆっくりと昼食にしたいところですが、私は今日中に訪れなければならない場所がまだあるので、軽食を食べ歩きながら電車に乗り……続いて訪れた先は『善通寺駅』。
ここから私が行きたかったとある場所へと行きます。
どこか分かるでしょうか? 正解は……もう既に出ています。

その場所とはお寺さんである『善通寺』です。

私にとっては初の四国のお寺……お遍路の聖地での寺社訪問は普段と違ってなんだか緊張します。
ここ総本山善通寺は正式には『屏風浦五岳山誕生院善通寺』といい、山号の『五岳山』は寺の西にそびえる香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山の五つの岳(山)に由来しており、その山々があたかも屏風のように連なることから、かつては『屏風浦』とも称されてました。
そして、ここは弘法大師こと空海の誕生の地!
そのため、院号として『誕生院』とされています。
御誕生所である善通寺は京都の東寺、和歌山の高野山とならぶ『弘法大師三大霊跡』のひとつとして、古くから篤い信仰があります。
この善通寺の創建は……
唐より帰朝されたお大師さまが、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号した。
引用元:『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)より
と記されています。
鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に『誕生院』が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々のお寺だったらしいですが、明治時代に至り善通寺として一つのお寺となりました。

現在は真言宗善通寺派の総本山であり、また四国八十八ヶ所霊場の75番札所でもあります。
総面積は約45,000平方メートル!
『伽藍』と称される東院、『誕生院』と称される西院の東西二院に分かれており……金堂、五重塔などが建ち並ぶ『伽藍』は、創建時以来の寺域。御影堂を中心とする『誕生院』が、お大師さまが御誕生された佐伯家の邸宅跡にあたり、ともに弘法大師御誕生所としての由縁を今に伝えています。
境内は国史跡『讃岐遍路道』に指定されており、連日多くの人達がお参りに訪れています。
ちなみに『お大師さま』としても親しまれる弘法大師空海について少し触れてみましょう。
空海は宝亀五年(七七四年)六月十五日、父・佐伯善通(さえきよしみち・俗名:田公(たぎみ))と母・玉寄御前(たまよりごぜん)の子として、四国・香川県の西部に位置するこの善通寺の地に誕生しました。
幼名を『真魚(まお)』と名付けられ、両親の寵愛を受けて育ち、幼いながらも非常に聡明で信仰心の篤い子供だっだと伝えられています。
『赤門』から入るとすぐに目を奪われるのが『五重塔』
高さが約43メートルあり、国内の木造塔として3番目の高さを誇るそう。
創建以来何度か倒壊、焼失により再建を繰り返し、明治35年(1902)に完成した現在の五重塔は4代目らしいです。
4回も建てるとなるとお金も材料もかなりかかりそうですね…。

塔の中には、密教思想の中心的存在である『五智如来(五仏)』が安置されており、そのうち4体は、1階の壇上、心柱を囲むように安置されています。東は白象に乗る『阿閦(あしゅく)如来』、南は馬に乗る『宝生(ほうしょう)如来』、西は孔雀に乗る『阿弥陀如来』、北は金翅鳥(迦楼羅)に乗る『不空成就(ふくうじょうじゅ)如来』、そして五智如来の『中尊大日如来(非公開)』は5階の厨子内に安置されているそうです。
通常は入れませんが毎年、ゴールデンウィークには1階と2階の内部が特別公開されるそうで(拝観料:一般300円)、先ほど紹介した堂内の仏様が拝観でき、大黒柱である心柱が礎石から浮いている状態も見られるとのこと。
う~む、時期が少しずれましたな……これもまた縁。
そして、その向かい側にあるのが……

善通寺の本堂である『金堂』です。
こちらは伽藍(東院)の中央に位置します。
創建期の建物は、永禄元年(1558)の兵火によって焼失し、元禄12年(1699)に再建されたものだそうで、一重裳階付入母屋造の本瓦葺、床は土間に平瓦を敷き詰めています。
正面と両側面には火灯窓(花頭窓)が配され、その上部には四面すべてに「ゆらぎ」の連子欄間が施されている変わった意匠。
特徴の由来としては、禅宗様という建築様式に基づくものだそうですが、装飾は極めて簡素……しかし、逆に本尊の偉容を引き立てています。
TPOを意識した造りということですね。何事もほどほどが大事。
金堂内の中央である須弥壇上に座すのが善通寺の本尊『薬師如来坐像』。
この坐像は御室大仏師・北川運長の製作で、元禄13年に完成したもので、像高は3mのヒノキ材による寄木造。表面は漆地に金箔を押しており、眼には水晶を嵌め込んでいて、それが生気に満ちた表情を作りだしています。
こちらの拝観は自由ですが時間が午前7時~午後5時と決まっているのでご注意を……。
境内は広大ゆえに様々なものが目に留まります。
南大門北と五社明神社のかたわらにある2株の楠もその一つ。いずれも樹齢千数百年と伝え、弘法大師の幼少の頃……そして善通寺の創建当時を知る大木。『善通寺境内の大グス』として香川県の天然記念物に指定されています。


『御影堂』のある誕生院は、先ほども触れたとおり、弘法大師空海が生まれた佐伯家の邸宅跡に建てられた寺院です。
江戸時代まで独立した寺院として善通寺全体を監督、管理しており、その中心となるのがこのお堂だったとのこと……現在の建物は天保2年(1831)の建立で、昭和12年(1937)に大規模な改修を行っています。
『御影』とは、一般的には祖師そしてその姿をいい、真言宗では弘法大師空海の姿を指しています。
御影堂奥殿の厨子内には秘仏・瞬目大師(めひきだいし)像が祀られており、寺伝によると……空海が唐にわたる際、寂しがり心配する母上のために、池に映る我が身を写した画像だと伝えられています。
その厨子前には木造の弘法大師像と四天王像を安置し、幼少時のお大師さまの姿をあらわした稚児大師像やご両親の佐伯善通、玉寄御前の像も一緒に奉安されています。
この奥殿は玉寄御前のお部屋があった場所と伝えられており、大師信仰の聖地を示しています。
そんな御影堂の地下には約100メートルの通路をめぐる『戒壇めぐり』があり、これは真っ暗な中を進み自己を見つめなおす精神修養の道場。
その中心が玉寄御前の部屋があったとされる場所とされ、その中央には大日如来像が安置しされています。
境内には空海以外の人物も祀られています。
それが浄土真宗の開祖、見真大師『親鸞(しんらん)』です。
その親鸞が祀られているお堂は『親鸞堂』といい、内陣の黒漆塗り厨子内には、木造の親鸞坐像が安置されています。この木彫の親鸞像は珍しく、別名を『鎌田の御影』ともいうそうです。

謂れとしては親鸞聖人の師である法然上人が参詣した善通寺に自らも訪れたいという願いを果たせず、その願いを込めこの木像を送られたと伝わっています。
この他、善通寺にはその法然上人が建立したと伝える逆修塔があり、鎌倉時代に参詣したと伝わっています。
そんな『親鸞堂』の隣にあるのが不動明王をおまつりする『護摩堂』で、現在の建物は昭和15年(1940)のもの。堂内中央壇上に、不動明王坐像を安置し、その正面に護摩壇を設けて、密教の秘法で諸願を祈祷する『護摩』の修法が行われます。
護摩とは不動明王を奉じて供養し、壇上の炉に火を起こして『護摩木』を焼べて祈祷します。
よく厄除けや大晦日、正月に行われているのをテレビで目にした方もいるかもしれませんが、あれが護摩です。
そして、各所お参りをして御朱印を頂きました。
お遍路では昨今の神社仏閣ブームにおける御朱印とは違い、具体的には『納経』という形で専用の納経帳や装束、掛け軸などに書いて頂きます。
そのため、お寺によってはお寺用の御朱印帳を持参しても納経帳以外は記載できないということがあります。
私はその辺りが不安で、もしかしたら𠮟られてしまうのではと内心ビクビクしていましたが、そんなことはなく快く応じて下さいました。
対応していただき、ありがとうございます!
力強く、立派な筆跡で……見ているだけで厄払いになりそうです。

食を割いて十二分に境内散策を堪能……これは断食扱いでしょうか?
天気は快晴! 梅雨時期近くでこのような天気もそうそう無いでしょう。
一息入れたいところですが、もう1カ所みたい場所があるので、善通寺を後に……。

白浜に描かれた絶景を求めて……
善通寺駅から再び電車に乗り、今度は『観音寺駅』へと到着。
時刻はもうすぐ夕方に差し掛かろうという時……少し急ぎます。

駅から目的地のある場所までは少し距離があるので、道中を眺めながら散策。
この日は干潮だったのか、河口の水はほぼ無い状態……内陸育ちゆえ、こういう光景はなかなかお目に掛かれないのでまじまじと見てしまいます。

琴弾八幡宮
次なる目的地がある(見える?)ところは高台にあるのですが、その道中で神社を見つけたので寄ることにしました。
その神社とは『琴弾八幡宮』
なかなか大きな鳥居が目立っています。

そんな琴弾八幡宮前の川には何やら注連縄で囲まれた岩が……。
見るからに何かありそう……もしや何かを封じているのか?
ハトが1羽降り立っているのも何か意味があるのかも……。
ワクワクしながら周囲を見渡し、謂れらしいものが記載されている看板を探しますが見当たらず……。
後々調べてみると、ここは琴弾八幡宮の神事(放生会)が執り行われる神事場で『琵琶の杙(くい)』ともいわれているそうで、神聖な場であるため注連縄で囲まれているとのこと。
名の由来は放生川の御祓橋に至る河口の形が楽器の琵琶の形に似ているからとも、かつて枇杷を沢山植えていたからともいわれていますが、弁財天を祀っている事から弁財天の持つ楽器の琵琶の説が有力視されているようで、岩の位置も楽器の琵琶の首の位置に近いところからこの説が濃厚みたいです。
弁財天は水の神であり川で出来た琵琶の岩……そして、名前に琴のある神社の近くということもあり、芸能を司る神としての意味も考えると深い縁がありそうですね。
ハトは関係なかったです。

お参りする前に恒例の手水舎によるお清めですが……なんだか妙な気配を感じる。
少し入念に辺りを見渡すと……。

手水舎の下の日蔭で猫がゆったりとくつろいでいました。
いやぁ~、のどかですなぁ。
岩手の猫たちは常に動いているイメージですが、沖縄、九州を含めて西日本は猫との遭遇率が高く、みんなのんびりとしていて人懐っこい。
温暖な気候がそうさせるんでしょうな。
猫好きには堪らない土地です。

そうして、本殿へお参り……かと思ったら、こちらの社、なんと本殿ではないとのこと。
本殿はこの山の上にあるとのことで「おや?」と思いながら、私の当初の目的地を確認。
もしや、本殿はその道中……または目的地と同じ場所にあるのか?
これは逆に嬉しい誤算……すぐさま向かいます。

本殿は神社前にある琴弾公園入口の大鳥居から381段の石段を上がるとあるそうで、やはり目的地と重なっていました。
しかし、ここに来てまた長い石段……今日は朝から上ってばかり。
あれ、これは修行ではなかろうか?
ちなみにこちらの場所は元四国八十八ヶ所の68番札所で、現在は新四国曼荼羅霊場の23番札所およびさぬき十五社の14番札所になっています。
もう聞いているだけで何がなんだか分からなくなるような肩書だらけですね。
道中には、源義経が屋島の合戦の戦勝を祈願して奉納したと伝えられる木の鳥居や、遍路道の父とも言われている宥辨 真念(ゆうべん しんねん)の道しるべが残っています。
また、源義経が源平合戦の勝利祈願をしたことで知られ、今も義経参詣の願文、神馬の奉納などの史実、史跡が残っており、これが勝負の神様といわれる所以になって、受験生や勝負事の際の祈願として多くの参拝者が訪れるそう。
……修行の神の間違いではなかろうか?

由緒によると、
大宝3年(703年)3月琴弾山で法相宗の高僧・日証上人が修行をしていました。そのうち西の空が暗くなり音がしてきたので浜にでてみた所、一隻の船の上で琴の弾く老人を見つけました。琴の主は「我は八幡大明神なり。都の近くで朝家(朝廷と国)を守護しようと宇佐より来たが、この地の風光があまりにも素晴らしいので去り難い」と上人に言いました。
上人は驚いて村人とともに船と琴を山に引き上げて社殿を作りお祀りし、琴弾八幡と名付けると同時に、神宮寺として宝光院(現在の四国八十八ヶ所霊場第69番札所・観音寺)を建てました。当時は神社と寺の境の区別がない、神仏習合の寺社でした。大同2年(807年)唐から帰国した空海が立ち寄り、琴弾八幡の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊としました。
とのこと。
四国遍路は鎌倉時代以降、鎌倉〜室町時代頃より広まったとされていますが、琴弾八幡宮は観音寺と共に一山二霊場となりました。
やがて四国遍路が八十八ヶ所として整備されると琴弾八幡宮は68番札所になりましたが、明治以降、神仏分離によって琴弾八幡宮と観音寺が分離すると、琴弾八幡宮にあった阿弥陀如来像を観音寺西金堂に移して68番札所『神恵院』とし、この際に琴弾八幡宮は『琴弾八幡神社』に名前が変更されていますが、戦後現在の琴弾八幡宮に名を戻したという歴史があります。
前を歩くお遍路さんもその歴史の足跡を辿っているのでしょう。

階段傍では猫が丸まって気持ちよさそうに眠っています。
これが本当の『眠り猫』
猫は昼寝し、犬は駆け回り、子供は遊び、赤ちゃんは泣き、大人は働き笑い合う……世界が平和な証拠です。

石段に石灯籠……なんだかまた金比羅宮に来たかのような錯覚に陥ります。
もしかすると、四国の神社はみんなこのような感じなのかもしれません。
石段上がりはキツイですが、これもまた趣があって良いものです。

幾たびの石段を上がり、ようやく本殿入り口前まで到着。
いやぁ……長かった……。
さすがに今日はもう上がりたくない……。

けれども、そんな苦労を称えるかのように眺望は最高!
観音寺市内を見渡し、澄み渡る空が向こうの山々まで見せてくれます。

瀬戸内海を臨む側には狛犬が街を見守っていました。
港町らしい、穏やかでのどかな景色……疲れは取れないですが、癒されます。

そうして、ようやく琴弾八幡宮の本殿に到着。
高台にある神社はとても立派です。
足腰が弱くなったら訪れないだろうな……体力がある若い内の特権ですね。
琴弾八幡宮で祀られている主祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫命の三柱。
絶景を背にお参りさせていただきました。

そして、隣にある授与所にて御朱印を頂戴しました。
こちらの御朱印も立派な筆跡……対応していただき、ありがとうございます!

銭形砂絵
神社の方に伺ったところ私の当初の目的地へは神社の脇道を通ることでショートカットできる、とのことで社殿を眺めながらありがたく通らせて頂きました。

数ある石段を幾重にも上がり、ようやく目的地へと到着。
見る前から眺望が良さそうな気配がひしひしと感じられます。

私のここでの目的地……それは『銭形砂絵』です!

林に囲まれた有明浜の白砂に描かれた巨大な銭形の砂絵。これが見たかった……。
その大きさは東西に約122m、南北に約90m、周囲で345mもあるそう。

砂絵を見れば健康で長生きし、お金に不自由しないといわれています。
この砂絵は江戸時代である1633年(寛永10年)に、丸亀藩藩主の生駒高俊が領内を巡視することになった際、土地の人々が歓迎の気持ちを現わすため、急遽白砂に鍬を入れ一夜にして作りあげたという伝説があります。
ただそれは一説であり、実際に砂絵のモデルとされる貨幣、寛永通宝が鋳造されたのは寛永13年(1636年)からで、しかも高俊が巡視した事実もないとのこと。
ただ、歴史ロマンとしてはこのような伝説もあり、と感じてしまいます。
私は人生が楽しくあれば宇宙人だろがツチノコだろうが、その有無は関係ないタイプ。
あ、ただ幽霊は信じていますよ?
ちなみに砂絵の伝説には他にも『1855年(安政2年)に丸亀藩第7代藩主京極朗徹に見せるために造営された』説や『もとは豊臣氏の瓢箪紋だったが、寛永10年に江戸幕府の巡検使が来ることを知って一夜で作り変えられた』という説もあるそうです。
まぁ、どちらにせよこの光景が圧巻である事実は変わりません。

この美しい砂絵を保存するために毎年、春と秋に市民を中心に数百名で『砂ざらえ』を実施しているそうです。
『砂ざらえ』とは砂絵を美しく整えることをいい、砂ざらえ開催時のみ、深さ2メートル以上の砂絵に入ることができます。
地元の方々の並々ならぬ努力によりこの絶景は維持されているのですね。ありがたいことです。

砂絵だけでなく美しい海辺の景色もこれまた最高です!
うっすらと海の向こうに島々が見えるのもまた良いですね。

景色を堪能した後は神社へ戻り、休憩所で一休み……この場所もまた味があったいいものです。
清々しいのどかさといったところでしょうか。

いざ『みかんの地』へ……!
これでこの日の私の目標は達成。
これから宿探しも兼ねて、街へ下りていきます。
帰りはこの石碑の指す方向に従います。

しかし、金比羅宮でもそうでしたが、この石畳と石碑の壁は香川の神社ではデフォルトなんですかね?
なにはともあれ、道が歩きやすいことは良いことです。

そうして無事に街へと着いた私は次なる地を『愛媛』に定め、香川からほど近い『今治市』に宿を取り、この日を終えたのでした。
果たして、梅雨が近づく中……この選択は吉と出るか凶と出るか……。





