岩手で有名な人物の一人として数えられる人物『宮沢賢治』………その生涯は己の信念と高潔な精神に彩られ、博愛に満ちた人生でした。
そんな賢治が眠る場所は彼が愛した花巻の街中にある閑静な古刹。
賢治を偲び、多くの人々が訪れるそのお寺は春には桜、秋には紅葉の名所としても有名です。
今回はそんな名士の魂を癒しているお寺をご紹介します。
宮沢家ゆかりの寺院
概要
宮沢賢治がかつて教鞭を振るっていた花巻農学校跡地である『ぎんどろ公園』からほど近い、高台にあるお寺『身延別院 遠光山身照寺』こと通称『身照寺』は賢治をはじめとする宮沢家ゆかりの菩提寺です。
こちらのお寺の宗派は日蓮宗で日蓮宗総本山身延山久遠寺、最古の身延別院を再興した寺院。
岩手を治めていた南部家が建立、開基した歴史があり、その南部家が手植えしたとされるしだれ桜は春や秋には美しい景観を作り出しています。
由緒
そんな『身照寺』の由緒としては………
身照寺の起源は応永年間(1394)に溯る。日蓮聖人の四大檀越のひとり南部実長公の裔・南部政光公(南部氏8代)は、南北朝時代に南朝につき、足利将軍に降るを潔しとせず、甲斐(現在の山梨県)の本領を捨て奥州八戸に引揚げた。政光公は実長公の教誡である法華経信仰を継承し、身延山久遠寺より日崇上人を招き、応永元年(1394)遠光山身照寺を建立した。日崇上人が遷化された後、成就院・日学上人(後に久遠寺9世)を招請し、応永3年(1396)9月25日、実長公の命日に開堂、円公山身延寺と号した。身延山最古の別院にして南朝の勅願寺と伝えられる。以後年月を経て昭和3年(1928)男爵・南部日実上人(実長公裔36代)が日蓮宗花巻教会を設立。同21年(実長公650遠忌)に中興開基南部日実上人、中興開山牛崎日導上人によって再興される。
引用元:身照寺由緒
付け加えると、花巻の『身照寺』の元は遠野南部家の菩提寺として南部政光公(南部氏8代)が奥州八戸に建立した身照寺(身延寺)でしたが、天正19年(1591年)に焼失し、以来廃寺となっていました。
ですが、政光公の子孫である山梨県身延町鏡円坊住職の南部日実上人はこれを残念に思い、再建を願ってその地を花巻に定めました。
そうして昭和3年、宮沢賢治の叔父である宮沢恒治ほか町有志及び有縁の信徒は敷地を求め堂宇を建立、これを南部日実上人に寄進しました。
熱心な法華経の信者であった宮沢賢治は、このとき叔父の求めに応じて『法華堂建立勧進文』を創案しています。
その後は町有志、信者の努力によって身照寺(身延寺)を継承して昭和21年(1946)遠光山身照寺と称するようになり、昭和26年宮沢家の菩提寺であった安浄寺(浄土真宗)より身照寺へ改宗されました。
元々、宮沢家は熱心な浄土真宗の仏教信仰で賢治の父である政次郎は質店と古着商を営む傍ら『花巻仏教会』の運営にも携わり、人一倍力を入れ、近くにある大沢温泉で毎年『夏期講習会』を開催するほどだったといいます。
通常、このような宗派がある場合は他宗派とはあまり関わりをもたず、寧ろ対立するものですがこの講習会では他宗派の僧侶も招いていたらしく、比較的良好な関係を築いていたとされています。
その中で招かれていた講師から法華経に触れたことにより賢治の人生は大きく変わることとなりました。
その傾倒ぶりは凄まじいもので家族を浄土真宗から日蓮宗への改宗へ勧めるほど………その結果、賢治は父の政次郎と激しく対立し、時には家出をするほどの騒ぎに…。
ただ勘違いしてほしくないのですが、父親との仲が悪かったというわけではなく、対立は主に宗教に関するもので、政次郎自身は賢治へ仕送りをしたり、病気になった際は周囲の反対を押し切って看病するほど、息子のことは想っていたようです。
その証拠に賢治の死後は彼の遺言に従って、日本語訳の妙法蓮華経1000部を知り合いに配布したり、宮沢家を浄土真宗から日蓮宗に変えたりしています。
つまりはめちゃくちゃ良い父親です。
その結果、今の『身照寺』が賢治から代々続く宮沢家の菩提寺になったというわけです。
御祭神・御利益
祀られている御本尊については以下の表に簡単にまとめてみました。
御本尊 | 御利益 |
【日蓮宗】日蓮聖人奠定の大曼荼羅〔にちれんしょうにんてんていのだいまんだら〕 | 幸福成就 対象:学問向上、合格祈願、 |
『身照寺』の御本尊は『日蓮聖人奠定の大曼荼羅』というものです。
お寺の御本尊なので仏像の仏様をイメージした方もいるとは思いますが、御本尊というのは信仰の対象として仏教寺院やお仏壇に祀られているものを指し、仏像だけでなく掛け軸や文字で記された名号、曼荼羅など多岐にわたります。
つまり、刀や茶器といったものでも信仰の対象とされれば御本尊というわけです。
この御本尊は宗派によって異なり、日蓮宗の場合は仏教の教えを視覚的に表現した『大曼荼羅』になります。
『曼荼羅』とは説明すると難しいですが、このようなものです。

日蓮宗では主に『十界曼荼羅(じっかいまんだら)』と呼ばれる中央に南無妙法蓮華経の題目を大きく書き、それを囲んで諸尊や十界の名称を記したものが使われます。
ざっくり述べるならお経版の曼荼羅といったところでしょうか?
奠定とは『基礎を定める』という意味で、つまり『日蓮聖人奠定の大曼荼羅』を訳すと『日蓮聖人が定めた仏教の教え』ということになります。
アクセス
『身照寺』は『ぎんどろ公園』から歩いて5分ほどの距離にあります。
詳細な道順についてはこちら▼の記事をご覧ください。

最寄りである『花巻駅』からは車で10分……歩いて30分ほど掛かります。
『ぎんどろ公園』隣にある『花巻市文化会館』近くにはバス停があるので、バスを利用するのも良いでしょう。
駐車場は道路を挟んでお寺の向かい側にあります。
探勝レポート
それではさっそく探勝といきましょう!
今回はお寺の駐車場からのスタートとなります。

駐車場は道路を挟んでお寺の向かい側にあります。
砂利ではありますが、そこそこ広いため問題なく停めることができるでしょう。

駐車場からはお寺への石段を見ることができます。
お寺の石段というと長いイメージがありますが、こちらの石段は短いため上がりやすいです。

道路を渡り、石段前まで来ると掲示板のようなものにありがたいお言葉が記されています。
独りよがりはやがて孤独となる………それに気付くか気付かないかは自分次第ということですね。
近年では軽く言っただけでもパワハラ扱い……なのに、職場にいるお局やズルい人ばかりはのさばっていく…。
そのような人達こそ、ここに記されているように孤独になるはずですが会社というのはそういう人達を庇い、重宝し……言えない人ばかりを酷使して潰していく…。
ましてや「助けない」とは口にしつつも、結果何もしなければ巡り巡って自分に影響し、仕事の負担が増えたり、ミスが起きたりする。
それを人は因果応報と呼びますが、ではその原因を作った張本人に果たして因果は巡ってくるのか?
自分よがりな人を助けなければ、そのしわ寄せが自分に返ってきて……助けたら助けたで自分よがりな人はさらに助長し、どんどん悪化する………結果、優しい人ほど負担が重くなり、やがて壊れて捨てられる…。
昔、そんなループにはまってしまい…そのことをとあるお寺のお坊さんに尋ねたところ「そのような人は来世で必ず報いを受けるのです」といわれ、「その報いを受けたという証拠はあるんですか?」と逆に聞き返したら何も答えることができなかったため、そこから一時は「仏の教えも結局は都合の良い人達のためにあるもの」と絶望し、神仏の類が大嫌いになったことがありました。
その後、そのお寺とは別のお寺で観光目的でシレっと訪れた時にそこのお寺のお坊さんとたまたまお話する機会があり、ある回答を得たことで納得し………また、不思議な出来事も重なって以降は心を入れ替えて神仏の類を信じるようになりました。
そんな私が今や推し神様を持つほどになったのですから、人生とは分からないものですね。

そんな昔のことを思いながら、石段前まで来ると何やら恰幅の良さそうなお地蔵さんがいます。

よく見るとただのお地蔵さんではなくふくろうのお地蔵さんですね。
結構かわいいです。
見ようによっては赤い涎掛けをした赤ちゃんや子泣き爺にも見えます。
って、こんなこと言ったら怒られますね(笑)

さて、それでは石段を上がっていきますよ!
とはいえ、ご覧のとおり緩いのでそこまで大変ではありませんでした。

境内に入るとやや色づいたしだれ桜が本堂までの道を覆い、トンネルを作ってくれています。
こういう風景もいいものですね。

手水鉢にも色鮮やかな花々が浮かび綺麗です。
こういう風情は神社とはまた違った趣がありますね。

立派な本堂に入り、お寺の方を呼んで御朱印帳と御朱印の授与をお願いします。
神社と違ってお寺はどこにでも人が必ずいるのが強みですよね。
話によるとしばらく掛かるとのことで、その間に賢治の墓参りを勧められたので、本堂を後にします。

入った時は曇りがちでしたが、雲が切れて晴れ間が出てきました。
雲一つない晴天よりもこちらの方が個人的には好きな天気ですね。

宮沢家のお墓は本堂の裏手にあるとのことで、ぐるりと裏へ回ります。
お寺から見る北上方面の景色………住宅が点在していますが、昔は田園が広がっていたんでしょうね。

境内にはしだれ桜が至るところにあります。
これも南部家が手植えしたものでしょうか?
八戸にあった『身照寺』は焼失し、昭和の頃に花巻で再興したのですから、始めは手植えした桜を移植したのか……と思っていましたが、再興した南部日実上人もれっきとした南部家なわけで、すなわち昔の南部家が手植えしたものではなく、南部日実上人が手植えした桜ということなんですかね。
ついつい、戦国や江戸の頃の南部家を連想してしまうのは悪い癖です。

本堂を過ぎるとすぐの所に墓園への入り口があります。
私がイメージする墓地は大抵が石や砂利があるのですが、ここは芝生となっているのですね。
聞くと毎日この芝生を手入れして整備しているのだとか………いやはや、本当にお疲れ様です。
この先に賢治が眠る宮沢家のお墓があります。
賢治もさぞ、嬉しく思っているでしょうね。

お墓はHPなどに載っていますが、故人のお墓をはっきり映すのは私個人としては抵抗があるので、当ブログでは掲載しません。
ご了承ください。
お墓の傍には説明書きがあり、これによると分骨はしていないようです。
つまり、賢治の御魂はここにのみ眠っているということになります。
手を合わせ、お参りさせていただきました。



御朱印ができるまでまだ時間があるため、境内を隅々まで散策。
宮沢賢治にちなんでか、ふくろうの置物が至る所にありますね。
下から見上げるしだれ桜は迫力があります。
もし、桜が咲いて満開ならばより一層綺麗でしょう。
桜の時期になると夜間のライトアップもされるそうなので、機会があれば見てみたいものですね。

時間になり、御朱印を受け取りに本堂へ。
御朱印帳は賢治と銀河鉄道の夜をイメージし、金と銀に彩られた紺のもの。
控えめに言ってもかなりカッコいいです。

御朱印もページいっぱいに記された豪勢なもの、赤い紅葉と水色の賢治がこれまた良いですね!
神社の御朱印は書置きが多くなりましたが、お寺の御朱印は未だ手書きが多くあります。
お忙しい中、対応して下さりありがとうございました。
おわりに
法華経への信仰が強い賢治でしたが、彼がそこまでに傾倒した理由は教えというよりも日蓮の行動と思想に強い感銘を受けたからだといわれています。
憧れた人物に想いを馳せる………それは何も実際にいる人物や同じ時代を生きた人に限らず、時代や国が違っても良いのだということを改めて教えてくれたのかもしれません。
目指すべきものを見定める……混迷ともいわれる現代においてはそんな生き方がより重要だといえるでしょう。
皆さんもそんな賢治に会いに『身照寺』を訪れてみてはいかがでしょうか?