神社というと神様を祀る聖域とされており、あまり『死』という概念がないように感じられます。
というのも神道における『死』や『血』などといったものは穢れとされており、忌避されるべきものと捉えられており、そちらの分野では仏教の方が専門といえるでしょう。
その流れを汲み、現代でも親しい方が亡くなった場合や喪に服している間は初詣や参拝を控える……といった習わしが残っています。
とはいえ『神葬祭』といった神道の葬儀はありますし……境内に墓所がある神社もあり、完全に拒絶されているというわけではありません。
けれども、古代人の墓……古墳が神社の境内にあるというのは聞いたことがあるでしょうか?
今回はそんな古墳が残っている珍しい神社をご紹介します。
蝦夷の古墳を守る神社
概要
その場所は花巻市上根子の豊沢川流域近くにある熊野神社です。
一見すると熊野神社自体はどこにでもありそうな名前ですが、この場所の別名は『熊堂古墳群』とよばれています。
境内には約10基ほどの古墳群があり、その場所からは大刀や勾玉などの貴重な副葬品が多く出土されています。
かつてはこの神社を中心に数十基ほどが存在したといわれ、『蝦夷塚』または『四十八塚』と称されていましたが、開墾などにより現在は約15基ほどに減少しました。
古墳の時期としては7世紀末~8世紀頃とのことです。
発掘調査は昭和61年(1986年)から毎年続けられ、11基の調査が行われました。
形状はいずれも円墳とよばれる円形状の古墳で、規模としては小規模ですが多くの古墳が集まっている群集墳です。
また1991(平成3)年に花巻市の指定史跡に指定されています。
御祭神・御利益
祀られている神様については以下の表に簡単にまとめてみました。
御祭神 | 御利益 |
伊佐那岐命〔いざなぎのみこと〕 | 子孫繫栄の神 対象:子宝、夫婦円満、長寿繁栄、厄除け、運気上昇 |
伊佐那美命〔いざなみのみこと〕 | 子孫繁栄の神 対象:子宝、安産、家内安全、縁結び、延命長寿、夫婦円満 |
宇加之御魂命〔うかのみたまのみこと〕 | 五穀豊穣を司る神 対象:商売繁盛、家内安全、五穀豊穣 |
特徴としてはやはり生活圏内にある地域の神社だけあって子孫繁栄に強い伊佐那岐命〔いざなぎのみこと〕と伊佐那美命〔いざなみのみこと〕の二柱が祀られていますね。
そして、開墾した地という農業地帯も相まってこちらもお馴染み…宇加之御魂命〔うかのみたまのみこと〕も祀られています。
この神社はあの征夷大将軍で有名な坂上田村麻呂が勧請したとのことで、田村麻呂が信仰していた熊野大権現が元となっていたようです。
『子孫繁栄』と『農業』を合わせる『生活』の御利益が強そうですが、田村麻呂の武勇にあやかってみるのも良いかもしれません。
アクセス
熊野神社は花巻市街地から志戸平温泉などがある『花巻南温泉郷』へ向かう途中にあります。
国道4号線や花巻駅からはやや外れた場所にありますが、志戸平温泉や大沢温泉、鉛温泉を有する『花巻南温泉郷』への道…『花巻大曲線』(県道12号線)に沿って行くと道路のすぐそばにあります。
カーナビで行く場合は熊野神社で探すと多くの同名神社が表示されますので『熊堂古墳群』で検索したほうが分かりやすいです。
また道路沿いにある神社入り口には勾玉のモニュメントが付いた看板もあるので、参考にするのが良いでしょう。
ただし、神社は交差点に近い場所にあり、路上駐車ができません!
大きな駐車場もないので車を停める際は神社から少し離れた田んぼ脇などに駐車しましょう。
探勝レポート
それではさっそく探勝といきましょう!
今回は神社から少し離れた場所にある公民館のような場所からスタートです。
こちらの建物からほど近いあぜ道に駐車させていただきました。
見たところ民家ではないようですが、心配だったので敷地内には駐車せず……。
その場所から熊野神社は目と鼻の先……隣です。
そうして、歩くこと約2、3分ほどで……
熊野神社へ到着です!
鳥居をくぐればすぐ社殿……50歩も歩かずにすぐ参拝できます。
鳥居の傍には神社の由来書きが記された看板がありました。
以下に抜粋して記載します。
熊野神社由来
引用元:熊野神社由来
祭神 伊佐那岐命、伊佐那美命、宇加之御魂命
建立 大同元年(806)4月3日
延暦21年(803)坂上田村麿将軍が胆沢の蝦夷を平らげて胆沢城を築き、ここを根拠地として更に北方の平定を企て翌年、志和城を築いて北辺の警備の地としました。その時代は道路も橋も無く胆沢城と志和城との距離は一日では到達できないため両城の中間に盤基駅を設けて相互の連絡を容易に出来るようにしました。その盤基駅が今の熊野であるとされております。そして坂上田村麿将軍の信仰しておりました熊野大権現を勧請しました。以前は三熊野と称して、現在地と鬼屋敷と道願と三社ありましたが、明治維新後現在の熊野神社に合祀されました。
ではなぜ盤基駅が熊野であったかと申しますと、上根子には蝦夷塚と称される数多くの古墳群がありました。その数48,9との事でしたが、その古墳から大和民族の東北開拓時代に、有位の官人が用いていた物が数多く出土されていることから盤基駅は熊野であることが判明しました(岩手県立博物館にも出土品の一部が展示されてあります)
この古墳群も天保年間(1830年頃)まではそのまま保存されていましたが、時の奉行の命令で畑地に開墾され、原形を残しているものが今では一ヶ所もありません。
時の奉行の命令とはいえ、貴重な文化財が失われてしまったことは残念ですが、当時は生きることに必死な時代……文化財の保護よりも自分たちの食べ物の確保が優先されるというのは当然かもしれません。
しかし、田村麻呂がここに神社を立てた主な理由は北方警備における中間地点という意味合いが強いようです。
軍事的、政治的な面でもこの場所が適地だったということですね。
社殿にお参りして境内散策のお許しをいただきます。
凝り過ぎた装飾というわけでもなくシンプルな造り……ただ私としてはこういう雰囲気の方が逆に安心します。
すぐにでも古墳を見たいところですが、まずは周辺を探索してみましょう。
鳥居を入って左手には岩を土台とした立派な手水舎がありましたが、残念ながら水は出ていませんでした。
コロナが出現してから近年の神社の手水舎には消毒液が置かれ、水が出ない仕様が増えてきましたね。
手は良いとして、口の中は綺麗にしなくて良いのかな? と見るたびに思ってしまいますが、時代も変われば形式も変わるのが世の常……それが自然の姿かもしれません。
手水舎の後ろにあるこちらは神楽殿と社務所……こちらは一般的な神社とあまり変わらない様子ですね。
神楽殿の傍にはこれでもか、と思うほどの石碑群が密集しています。
ちなみにこちらの社務所は熊堂古墳群の出土品を展示されている貴重な資料館でもあるようです。
ぜひとも見て見たかったのですが、鍵が掛かっていて中には入れず……誰かがいる時にだけ見られるようです。
少し戻って鳥居を入って右手には月山三社の石碑が並んでいます。
月山の文字を見ると修験道で有名な出羽三山の月山が自然と頭に浮かびますが、この神社も修験道に縁があるのでしょうか?
とはいえ、どの神社にも似たような石碑は必ずといっていいほどあるので、一概にそうとも言い切れませんね。
道路沿いに沿って石碑が綺麗に並べられています。
境内を見守っているようにも見えるし、外界である道路側から神社を守っているようにも感じます。
石碑の近くには熊堂古墳群についての説明書きが立てられています。
画像では見づらいため、看板の内容を以下に抜粋させていただきます。
熊堂古墳群
引用元:熊堂古墳群説明書き
指定年月日:平成3年5月24日
所在地:花巻市根子
熊堂古墳群は、8世紀頃、現在の上根子地域に拠点を置いていた「蝦夷」の墓と考えられており、発掘調査で熊野神社の境内を中心に10数基が確認されています。小山状の墳丘は直径約10m・高さ1.5m、周囲が円形の溝で囲まれており、中央部に川原石を積んだ石室があって、そこに棺が納められていました。副葬品は、勾玉・切子玉などで、この地域に朝廷の勢力が及んでいたことを示す資料と見られています。
出土資料は花巻市博物館に展示されています。
花巻市教育委員会
こちらに記されている熊堂古墳群はこの画像の左側にあるのですが、あとちょっとだけ探索にお付き合いください。
こちらは交差点側……県道12号線『花巻大曲線』側にある鳥居です。
アクセスの項目で記載した勾玉のモニュメントがある看板もこの鳥居の近くとなります。
道路側の鳥居から社殿への距離が長いので本来はこちらが参道だったのかもしれません。
さて、それではお待ちかね……熊堂古墳群を見ていきましょう!
古墳への入り口は社殿の右手側にあります。
杉を柱として入り口にはしめ縄が巻かれており、風でなびく御幣が聖域への入り口を彷彿させます。
その雰囲気に思わず怖くなり、二の足を踏んでしまいましたが……私も探勝家の端くれ、この程度で臆してはいられないでしょう。
手を合わせ、一礼した後……足を踏み入れます。
しめ縄の先へ体を入れた瞬間、先ほどまでの境内とは一変……雰囲気が変わりました。
杉が乱立していて日陰が多くなったせいなのか、はたまた喧噪の多い道路側から林の中に入ったためか分かりませんが、急に静かになったような感じがしました。
同じ境内……しかも拓けているか、いないかの違いなだけの筈なのになんだか音が急に遠くなったような気がしたのです。
私の気のせいかもしれませんが……。
ただ、不思議と不気味さというのは感じず、寧ろ厳かな雰囲気を感じました。
例えるなら、強制的に背筋を伸ばされるような……しかし、緊張感というほど堅苦しくは思いませんでした。
辺りを見渡すとところどころに掘られたような跡と土が盛り上がり隆起している箇所、そうして石が積み上げられた石室のようなものがありました。
素人目から見ても古墳……何かの遺跡と一目で分かります。
道路側の境内からもいくつかは確認できますが、墳丘を間近に見ることができるのはやはり林の中からです。
墳丘にはそれぞれアルファベットと番号が振られており、これがそれぞれの目印となっているみたいですね。
そして、エジプトのピラミッドでも見るかのような石室も近くで見ることができました。
この中に古代の人が眠っており、多くの副葬品も見つかったと思うととてもロマンがありますね!
恐れていた雰囲気はどこへやら……いつの間にかワクワクしていました!
この石室に使われていた石は河原の石とのことでしたが、やはり近くにある豊沢川から採ってきたものでしょうか?
川の流域に人は住み、集落や文化が発展していくのは世界の歴史でも証明されていますから、この地域にいた蝦夷の人々は豊沢川を拠点に暮らしていたのかもしれません。
一通り、墳丘や石室を見た後、手を合わせ一礼し今回の探勝は終了しました。
おわりに
雰囲気が変わる、というのを肌で感じることができた探勝でした。
また、歴史の勉強でしか見ることができなかった古墳を初めて近くで見ることができ、歴史や古代の人々の習俗に思いを馳せることができ、有意義なひと時を過ごすことができました。
この他、北上市の江釣子にも古墳がありますので古代に興味がある方はそちらへ足を伸ばしてみるのも良いかもしれません。
皆さんも神社の参拝とともに古代のロマンを目にしてみてはいかがでしょうか?