江戸時代……旅行者の目印であり休憩所として利用されてきたものとして『一里塚』というものがあります。
江戸にある日本橋を起点として各街道の一里(約3.92km)ごとに道の両側にこんもりと作られたこの塚は時代の流れや道路の整備により徐々に失われていきました。
しかし、それでも未だに残っている場所は存在しており、街道における歴史の一端を知ることができる貴重な史料となっています。
今回は盛岡にある貴重な一里塚についてご紹介します。
盛岡藩が起こした事業跡
概要
盛岡市内から郊外にあたる『緑が丘』……その地域にある大型ショッピングセンター『アネックスカワトク』のすぐ近くに一際存在感を放つ塚があります。
こちらは『上田一里塚』と呼ばれていて、かつて盛岡藩領内の街道整備の際に築かれたものです。
現在の紺屋町から約4キロほど北方にあり『小野松一里塚』へと続いています。
一里塚は元々街道の両側に一つずつ築かれるのが原則ですが、現在は一基のみ残っており、1992年に『県指定文化財』に指定されました。
ちなみに花巻市石鳥谷町にも同様の一里塚があり、こちらは『江曽一里塚』と呼ばれています。
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アクセス
『上田一里塚』は盛岡市緑が丘4丁目『アネックスカワトク』傍の道路沿いにあります。
車で行く場合は『アネックスカワトク』を目指すように『国道4号線』を『盛岡駅』方面へ移動し『高松の池』を過ぎた辺りにある『高松交差点(松園方面)』を右折し、そのまま真っ直ぐ進むと見つけることができます。
周囲には『高松の池』のほか、少し先に行くと『岩手県立博物館』などがあり、散策コースにはぴったりです。
駐車場は『アネックスカワトク』の駐車場のほか、近隣のスーパーやコンビニを利用しましょう。
探勝レポート
それではさっそく探勝といきましょう!
今回は『アネックスカワトク』に買い物ついでに寄ったため、カワトクの駐車場からのスタートです。
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ものの数分で到着。
恐らく1000歩も歩いていないでしょう。
大きな盛り土の上に立派な松が生えており存在感がかなりあります。
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こちらは一里塚の近くにある由緒書き。
画像では字が少し見えづらいので内容を引用して記載させていただきます。
一里塚は、徳川幕府の国内統一事業の一つとして、全国的に実施された交通整備の基本政策で、往還(道路)沿いに一里(約四キロメートル)ごとに土を持った塚を築き、樹木を植えて往来の目標とした。
幕府は、江戸日本橋を起点として、東海道をはじめとする五街道を定めた。盛岡藩領内を南北に走る奥州街道の一里塚は、慶長九年(1604)から十五年(1610)にかけて築造された。
盛岡藩においては、盛岡城下の鍛冶町(現在の紺屋町)の元標を中心にして、領内の諸街道に一里塚を整備しており、この上田一里塚は、盛岡城下鍛冶町(現在の紺屋町)の元標から四キロメートル北方の地点にあり、小野松一里塚へとつづいている。
一里塚は元来、街道の両側に二基一対を築くことが原則で、当一里塚も本来は一対であったが、現在はこの西側の塚一基だけが残っている。
引用元:上田一里塚
さらに補足として、盛岡市のHPからも引用させていただきます。
上田一里塚は、盛岡城下にあった鍛冶丁一里塚(かじちょういちりづか)(紺屋町)から渋民に向かって、奥州道中(おうしゅうどうちゅう)(街道)を約4キロメートル北上した地点にあります。
岩手県文書によると、1922年(大正11年)当時、旧米内村に所属していたこの一里塚は、「盛岡ヨリ青森二通スル旧道ノ左右二相対シテ存」在していました。昭和初期までは2基あった塚のうち、東側のものは市街化の進展に伴って消滅していますが、西側の1基だけは上田修道院の敷地内にあったため、ほぼ円形に近い姿で残されていました。
盛岡市に所在する一里塚は、このほか、小野松一里塚(おのまついちりづか)(岩手県指定史跡)と宮古街道筋の4ヶ所が知られています。いずれも山林の中にあるものが多く、上田一里塚のように、市街地の中にある例はまれで、現在は地域のシンボルとして大切にされています。
なお、この塚の築造年代については、「篤焉家訓(とくえんかくん)」の記述に基づいて1610年(慶長15年)の築造とする説があります。
引用元:盛岡市HP『岩手県指定文化財 上田一里塚』
どうやら昭和初期の頃には既に一基だけとなっていたようです。
現在残っているのは元々『上田修道院』の敷地内にあったから……という理由で、もし敷地内でなければこの塚ももう一基同様消滅していたかもしれません。
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傍には立派な銘が刻まれている石碑もあります。
石と掘られている字から見ると昔からというより、新しく建てられたものでしょう。
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松も昔からあるものにしてはやや細身……それもそのはずで、元々あった松は平成16年8月に襲来した台風による影響で倒れています。
その時の樹齢は約120年。
その後、地元有志の方々の手により松の植樹が行われ、復活して現在に至るというわけです。
しかも、この松は貴重な『アカマツ』でアカマツは単独で成長できないため、中央に2・5・の1本を植え、周囲に4本を植えて発育を促したそうです。執念と努力を感じさせます。
今では『一里塚まつり』という祭典も行われており、とても大事にされていることが分かります。
塚自体も手入れされており、とても綺麗ですからね。
おわりに
住宅街の中にあり、ひっそりと残る一里塚……それは地元の方々の熱意と優しさによって守られ、大切にされたものでした。
昔の頃そのままとは流石に時代の流れもあって難しいですが、人々がこれほど手に掛けてた存在ならば今後も心の中に残り続けるでしょう。
身近にあるものにも深い歴史あり……皆さんも地元にまつわる歴史を探訪してみてはいかがでしょうか?