皆さんは弘法大師という方をご存知でしょうか?
様々な書物、逸話や伝説を持つその僧侶の正体は真言宗の開祖、空海です。
多くの人の場合は弘法大師よりも教科書で習う空海の名前の方が馴染み深いと思います。
高野山では今も空海が禅定を行っていると言い伝えられていますが、この岩手でもそんな空海にまつわる弘法大師伝説なるものが存在します。
今回はそんな伝説の内の一つを紹介します。
弘法大師の杖が成長した古木
その伝説があるのは花巻市石鳥谷の国道4号線沿いにある『逆(さかさ)ヒバ』です。
周囲は鬱蒼とした林に囲まれており、一見すると見落としそうになりますが……その中でも一際目立つ巨木があります。
この巨木が逆ヒバです。
木自体はほとんど枯れておりますが、存在感だけはしっかりとあります。
逆さひばの伝説
それではそんな逆ヒバの伝説とはなにか?
以下、案内板より抜粋します。
逆さヒバ
伝説によれば、今から千二百年ほど前に、弘法大師が諸国を巡行の折、この地に立ち寄り、湧き水でのどを潤そうとして休憩しました。その際、地面に挿した杖が根づいたのが逆ヒバといわれ、杖はそのまま根を張って大きくなったといわれています。
この逆ヒバは、植物名をクロベやクロビ、またはネズコなどといわれています。これは心材が黒いヒノキ科の一種という意味でこの名があります。クロベは本州や四国に分布していますが、特に中部以北の深山に多く、県内では所々の山地の岩石地や尾根などに見られます。
逆ヒバは、根本の直径が約二メートル、幹の周囲が約四・七五メートルあります。県内の植栽されたクロベの中で、最も古い大木といわれ、これに次ぐものとしては、釜石市の鵜住神社境内や盛岡市太田の太田薬師神社境内などに残っています。
逆ヒバという呼び名は、幹が太くなっても根本のほうが細くその上のほうが太くて、あたかも杖の様子を連想させることから、この名がつけられたともいわれています。
逆ヒバは奥州街道(国道四号、奥州街道)の西脇に立ち、古くから街道を往来する多くの旅人に親しまれ、見守られてきましたが、すぐ脇にある子守観音の神木としても大切にされてきました。
また、逆ヒバの下にある湧き水は、旅人の喉の渇きをいやしたといわれていますが、近年は、周囲の環境の変化によって涸れかかってきています。
引用元:『逆ヒバ』より
つまり弘法大師が持っていた杖が成長したのが逆ヒバということですね。
温泉といい、湧き水といい、木といい……弘法大師は各地で様々なものを生み出していますね。
これだけの偉業を成されたのなら、今でも崇拝される理由が頷けます。
アクセス
さて、そんな逆ヒバは国道四号線沿いにあり、車で運転しているとすぐに見つけられます。
ただし、見えはしますが駐車場はありません。
車を止める際は近くにあるコイン精米所やコンビニの駐車場に停めることをオススメします。
精米所やコンビニからは徒歩約5分ほどで到着します。
探勝レポート
逆ヒバ周囲
それではさっそく見ていきましょう。
今回、私は近くのコンビニの駐車場に停めさせていただき、徒歩で訪れました。
こちらが名木とされる逆ヒバです。
大きいのはもちろんのこと、周囲の他の木々に比べて木肌も白っぽく一層目立っています。
逆ヒバには至るところに穴があり、中は空洞となっています。
フクロウなどが住んでいてもおかしくないですね。
写真では分かりづらいですが、太い枝の先も切られ、黒いシートのようなもので補強されています。
定期的に樹木医に診てもらって治療しているみたいです。
木も人間も老いるとお医者さんのお世話になるのは共通みたいですね。
こちらが逆ヒバの根本になります。
昔はこの根本から湧き水が出ていたようですが、現在は涸れているのか草で隠れているのか水の痕跡は見当たりませんでした。
残念です……(T_T)
逆ヒバの後ろには南無阿弥陀佛という文字が彫られた石碑が……弘法大師にちなんでのものでしょうか?
こちらの石碑にも何か彫られていましたが、読むことはできませんでした。
さらに近くには『観世音』と書かれた石碑があります。
観世音とは観音様……観世音菩薩の略称です。
逆ヒバは子守観音の神木とされていた、といわれているので子守観音由来のものかもしれません。
さらに深部へ……
さて、逆ヒバ周囲の探索は以上になりますが、逆ヒバには林の中に通じる怪しげな小道があります。
それではこの小道を進み、さらなる深部へといきましょう!
小道を進むと、なにやら簡素な階段が現れます。
階段を上っていくと……
まるでお墓のような石碑群が現れました!
こちらの石碑は梵字が彫られており……
こちらの石碑にはいずれも『聖徳太子』の文字が……。
なぜ、聖徳太子?
徳のある聖(ひじり)……徳のあるお坊さんでやはり弘法大師を祀っているのか……うーん、謎です。
こちらは国道側の石碑……右の小さい石碑は『七庚申』と書かれており、左の石碑には『湯殿三山』の文字が……出羽三山は聞いたことがありますが、しかし出羽三山の一角には湯殿山があり、修験道の聖地とされている場所……やはり弘法大師と関わりがあるようです。
そして、石碑に囲まれるように鎮座する祠……ゲームとか冒険なら、アイテムや財宝が隠されていそうですね!
残念ながら何もなく、文字なども彫られてはいませんでしたが……この地の正体は知ることができました。
石碑群と祠の正体
それはもう一つの車の駐車場所として紹介した精米所の近くにある看板にありました。
以下、その看板から抜粋します。
小森林(小森)館跡
館跡は中世に稗貫郡を統治した稗貫氏の家臣・小森林氏の居館跡と伝えられる。小森林氏がいつ頃からこの館に居住したのかは不明であるが、永享七年(一四三五年)から翌年にかけての稗貫・和賀地方の兵乱の際、小森林冶部少輔が稗貫氏の従士として参戦したことが古書に記されており、この頃には居住していたのではないかと考えられる。
館跡の規模は東西・南北ともにおよそ四百メートルで、現在確認できる稗貫氏家臣の館跡の中では最大の面積を有していることから、小森林氏の勢力が強大なものであったことがうかがわれる。
四つの郭が確認できるが、その中で北東の郭が最大の面積を有する。郭の北側から南西に向かって幅十~十五メートルの堀が館の下に見られ、さらに南に折れて南側の沢につながっている。また、段丘の壁に沿って幅三~四メートル、高さ一~二メートルの土塁が築かれている。郭の北隅には館の鎮守である「小森(子守)観世音」が鎮座。その東側崖下には名木「逆ヒバ」や湧水がある。
天正十八年(一五九〇年)、稗貫氏は小田原の役に参陣しなかったため、所領を没収されて滅亡したものとみられ、翌年から稗貫地方は南部氏が統治した。
館の周辺には稗貫氏に関連するといわれる「稗努業神社」がある。また、当時の名残とみられる「直町」や「鍛冶屋敷」「小森館」などの地名が残っている。
引用元:小森林(小森)館跡案内板
稗貫氏とは昔、花巻の土地を治めていた大名ですね。
稗貫氏は豊臣秀吉の起こした小田原の役に参加しなかったことにより、仕置を受けてお取り潰しとなり、その後は南部氏が変わって統治するようになりました。
どうやら、あの石碑や祠のあった地はその稗貫氏の家臣である小森林氏の館があった場所であり、あの祠は館の鎮守である「小森(子守)観世音」みたいです。
そう考えるとかなり歴史的価値のある場所だったみたいです!
知らなかったとはいえ……怪しい場所なんて言ってしまい、恐ろしいです(・・;)
おわりに
逆ヒバのある地は単なる弘法大師伝説のある地だけでなく、歴史的価値のある土地でした。
普段何気なく見ていた場所でしたが、こういう発見があるとまた違った楽しみ方ができますね!
皆さんも地元にある不思議な場所を調べてみるのはどうでしょうか?
もしかしたら新たな発見や驚きがあるかもしれませんよ?