奥州平泉……そう聞いて皆さんが真っ先に思い浮かぶのは世界遺産に認定された平泉の『中尊寺金色堂』ではないでしょうか?
または藤原三代……源義経終焉の地……等、色々な名前が挙がるかもしれません。
しかし、意外にも平泉以外で奥州藤原氏にゆかりのある地があるということはあまり知られていません。
とはいえ、それは県外の方に限らず岩手県民も例外ではありません。
ということで今回は平泉以外で奥州藤原氏と関係の深い地をご紹介したいと思います。
棺のタイムカプセルから復活した古代蓮の咲く沼
概要
紫波町の日詰の地……そこに大きな沼があります。
その名を『五郎沼』といいます。
名前の由来である『五郎』というのはその昔、この周辺に館を構えた主、樋爪太郎俊衡の弟『五郎季衡』が好んで遊泳したことからこう呼ばれるようになりました。
現在は南北に細長い形となっていますが、これは明治時代以降の干拓によるものとのことで実際は西に約2倍ほど広がる形で南北450メートル、東西250メートルととても広大であり、沼のある場所はかつての池とのことです。
この五郎沼と赤石小学校および薬師神社などの周辺を総称し『五郎沼遺跡』とも呼ばれています。
現在では春は桜の名所、夏は蓮花、冬は県内有数のハクチョウ飛来地と自然に恵まれた土地でもあります。
それではどうしてこの地が奥州藤原氏と関係があるのでしょうか?
初代藤原氏の親族が支配した地
実は先程触れた樋爪太郎俊衡とは平泉初代藤原清衡の四男『清綱』の子供なんです。
つまり奥州藤原氏の血の繋がった親族ということですね。
その清綱がここに派遣されその子供達が居である樋爪館を構えて周辺を支配……現在の日詰の地名は樋爪からきているというわけです。
ちなみに『ひづめ』とは他にもアイヌ語で『ピッツ・ムィ(河原の港)』が転化したものといわれています。
交通と物流の拠点である北上川が近く、この地から金や漆、馬、米などを送って平泉王国を支えていたことが伺い知れます。
館跡は現在の赤石小学校周辺にあり、そこからは平泉と同時期の住居や井戸などの跡が確認され、五郎沼からは当時の『かわらけ』と呼ばれる土器の一部が出土されています。
またこの沼をいたく気に入っていた季衡は泳ぐだけでなく、堤防を築いて灌漑用水池にした他、池に船を浮かべて酒宴を開くなど平泉文化を踏襲していたことも明らかになっています。
ですが、やがて源頼朝が義経及び奥州藤原氏討伐を本格的に行い、同じ紫波にある陣ケ岡に布陣した際は樋爪一族は館に火を放って北へ逃亡したといわれています。
やがて頼朝の裁定により藤原家中の中で唯一太郎俊衡だけが許され、この地に戻って住職となりました。
他の一族はすべて関東方面に流罪となったそうです。
時代を超えた蓮花の種
さて、この五郎沼の歴史は以上の通りですが、では古代蓮とはなんなのか?
気になる方もいると思います。
実は今は世界遺産となっている金色堂……そこにあった泰衡(平泉4代)の首桶の中から昭和25年(1950年)の学術調査で蓮の種が発見されました。
そして、その種子を恵泉女学園短大の長島時子教授が生命工学で平成6年(1994年)に発芽、栽培にこぎつけ、平成11年(1999年)中尊寺に移植し初めて開花させました。
ここまでならなんの不思議もありませんが、なぜそんな貴重な蓮の種子が五郎沼にも移植されたのか?
実は奥州藤原氏の首は陣ケ岡に晒されたのですが、その首を外して蓮の実と共に首桶に入れ、金色堂に収めたのが太郎俊衡だというのです。
よく考えれば住職となり、一族の中で唯一許された人物ですからそんなことが出来るのも俊衡しかいないでしょう。
つまり、その俊衡の功績を讃える意味でも五郎沼へ蓮が株分けされたというわけです。
悠久の歴史を感じさせますね!
アクセス
五郎沼は国道4号線のすぐ近くにあります。
入り口は花巻方面から盛岡方面に行く際に左手に木で出来た看板がありますので、その看板に従い曲がります。
盛岡方面からでも入ることはできますが、入り口が分かりづらく車線を横断する必要があるので花巻方面から入っていくのがオススメです。
駐車場は砂利ですが、かなり広く日中のお昼頃は近隣の会社員の方々が休憩所に使うほどです。
トイレも小型ながらちゃんとあります。
特に注意するべきところはありませんが、桜の咲く春や古代蓮が咲く夏頃は人が多くなり、混みますのでその時期のトラブルに注意が必要です。
探勝レポート
初級散策
それではさっそく探勝といきましょう!
今回は五郎沼の駐車場から一周するように探勝していきます。
こちらが五郎沼の駐車場になります。
ご覧の通り、かなり広いので数台の大型車が停まっていても問題なく停めることが出来ます。
近くには案内板や説明書き、トイレなどがあり、この駐車場の隣にある小さな沼地に古代蓮が植えられています。
こちらは五郎沼にゆかりのある樋爪館についての説明書き。
概要で説明した部分はこちらから一部抜粋しております。
こちらは古代蓮に関するいわれ……こちらでは俊衡ではなく、樋爪一族ゆかりの婦人の手によって蓮の種が入れられたとされています。
歴史を検証するうえで不確定な情報は数多くあり、その数だけロマンもある……完全なる解答はない、余韻を残す辺りが歴史の醍醐味ですね。
こちらは過去の五郎沼周辺を再現した地図……こうして見るとかなり広い地域を支配していたことが伺い知れます。
巨大な池もある館……実に羨ましいです!
こちらは五郎沼のトイレです。
見ての通りこじんまりとしているので男女共用となっています。
壁の裏手には手を洗うための給水タンクが設置されていますが、水に限りがあるので無駄遣い及び出しっぱなしにしないようにしましょう。
駐車場の近くには沼を見渡せるベンチもあります。
木陰で涼しみながら景色を眺めることが出来るので非常にオススメです。
それでは駐車場を出て、五郎沼散策へと行きましょう!
この赤い橋を渡れば散策路です。
五郎沼はかつて岩手でも有数なブラックバスフィッシングの地でした。
それこそ、50センチクラスの大物もいて連日多くの釣り人が通い詰めていましたが、駆除を目的とした水抜きにより元々棲んでいたコイやフナもろとも全滅しました。
コイやフナは再放流されていると思いたいですが、駆除の水抜き以来から私は五郎沼ではっきりとした魚影を見ていないんですよね。
こればかりは釣り人のエゴが引き起こした悲劇だと痛感しております。
その頃の私はというと沼に向かってルアーを投げている釣り人を尻目にこちらの用水路で雑魚釣りに励んでいました。
雑魚釣りとはいえ、この用水路には大物のウグイがかなり数おり、かなり楽しめるスポットです。
今でも沼では釣りをしませんが、冬季間明けのリハビリとしてこちらの釣り場をよく利用しています。
こちらがここの用水路で釣り上げたウグイ…約30センチです。
この他、あまり見ることが出来ないオイカワやアブラハヤなどの魚も確認されています。
ちなみにこのウグイなにで釣ったか分かるでしょうか?
正解は……メロンパンです。
ミミズでも釣れなかった時、何気におやつ代わりに食べていたメロンパンの欠片が水に落ち、それに食いついたためエサを急遽、丸めたメロンパンをにしたらすぐに食いついてきました。
(代わりに私は安いあんぱんを食べる羽目になりました……)
魚もグルメな時代になったものです。
こちらは先程の深場の用水路から一転して浅瀬の用水路……水深は小学生の膝くらい浅いですが、春先や梅雨時期でやや水量が増えた際は小型のアブラハヤがうじゃうじゃおり、雑魚釣りには穴場となっています。
もはや天然の釣り堀です。
水深も浅いので小さな子でも安心して釣りをすることが出来ます。
初心者で必ず魚を釣らせることが出来る場所と聞かれれば、私は真っ先にこの場所に連れてきます。
このような可愛らしいアブラハヤが待っていますよ!
さて、話しが脱線してしまいましたので戻りたいと思います。
この用水路沿いはコンクリートで整備もされており、水深もかなり浅いので車椅子の方の散歩及び小さい子の水辺遊びに最適です。
ただ、ヘビがよく出てきますのでそこだけはご注意ください。
今回、私はこちらの自然散策路を通っていきます。
こちらは地面がもろにあるため、やや歩きにくいですが、沼により接しており桜の木も近いので自然をより感じられます。
こちらでの注意点はジョロウグモの蜘蛛の巣トラップですね。
顔にかからないように気をつけてください。
五郎沼の中央には立派な浮島があります。
かつては船を浮かべて酒宴を楽しんだ沼……あの浮島が船に見えてしまいます。
あの浮島は渡り鳥や野鳥の休憩スポットとなっています。
用水路に広々とした田園……実にのどかです。
五郎沼の水面も静けさを漂わせています。
しばらく進むとこのように田んぼの方に架かる橋が見えてきます。
舗装された小川の散策路はここで終了となります。
自然散策路はもう少し続きますが、ここからアドベンチャー要素が一気に跳ね上がります。
もし、ほどほどで探勝を楽しみたい方はここでやめましょう。
中級散策
さて、ここからは中級者向け散策路となります。
ここをクリアすれば茂みに覆われた探勝場所でも通用します。
橋から向こうのエリアともあまり人の手が加わっていないことが多く、夏場などはこのように膝下ほどまで伸びる草に覆われていることが多々あります。
このような場所では蚊はもちろんのこと、ヘビなどの姿もよく見ますので短パンにサンダルといった軽装よりも丈の長いズボンやシューズがおすすめです。
ここまで草が茂り過ぎるとお腹から下はほとんど見ることができない状況になっています。
また、傍にある川は落下防止や進入禁止の柵や看板などがあり、誤って落下してしまう危険性も孕んでいます。
さらに、画像では小川のように見えますが、川は流れが速く、高低差もコンクリートに囲まれた用水路となっているため小さい子などが落ちてしまった場合、自力で上がることは不可能です。
雨上がりの増水時は元より普段の時もお子様連れの方や子供達はこの辺りに来ない方が無難です。
ちなみにこちらの川にも一応、小魚のアブラハヤやコイの群れを何匹か見かけはしましたが、場所も悪く釣り竿も出せる状態でないため、私でもここでは釣りをしません。
もう少し先に進もうとすると同じようなコンクリート造りの石橋があります。
用水路の高さとしてはこちらの画像をご覧いただければかなり高いということが分かるでしょう。
やはり、水難事故や転落事故などを防ぐためにもこちらには柵か看板が欲しいところですね。
橋の入り口はより一層、草が茂ってこんもりと盛られています。
ここは無理やり通るには難しいので……えいや! と飛び越えましょう!
えいや!
飛び越えた先での五郎沼の景色……『静寂』の言葉が似合いそうな素晴らしい景色です。
橋を越えると草は些かなりを潜め、歩きやすくなります。
民家の裏手にあたるので、近所の方が整備して下さっているのかもしれません。
民家を尻目に歩いていくと再び草が生い茂っている場所が現れました。
植物の生命力を嫌というほど体感しますね(笑)
実はここは行き止まりではありません。
非常に見えにくいですが、ここには木で出来た手すりと階段があります。
とはいえ、この時はとてもボロボロでまともな機能は期待しない方がいいです。
(実際、私も何度も足を滑らせました……)
寧ろ、ロッククライミングのように足場や手が掛けられる所を感覚で探って上って行ったほうが安全です。
軽い散歩気分で行くと少し痛い目を見ますが、アウトドアトレーニングとしてはちょうどいい場所です。
そうして、上りきると拓けた場所に出ました。
ここが中級散策のゴールとなる場所です。
ところどころ地面から出る石が気になるこの丘……ここがどんな場所かというと…
近くに『五郎沼経塚跡』という看板が……ここは経塚が発見された場所だったんですね。
経塚というのはお経などが書かれた経典を土に埋めて塚とすることです。
主に供養や善行を積む『作善行為』……所によっては妖怪などを封印するためともいわれていますが、平泉と関連の深い地と考えると善行を積むために作ったのかもしれません。
ちなみに五郎沼の経塚は後期古墳と考えられていたこともあり、仙台藩の地誌では『蛇蝎堆(だかつか)』と記録され、地元では『蛇塚』とも呼ばれていたそうです。
そして、この経塚をゴールにした理由としたは二つあります。
一つは拓けているうえに少し丘になっており、見晴らしが良いこと。
もう一つの理由としてはすぐそばに国道があること。
このように国道4号線から経塚までの道があるため、疲れた方は無理せずこちらから国道に出ましょう。
上級散策
それではここからは五郎沼の上級散策となります。
ここから先は中級と比較すると少し物足りなさを感じるかもしれませんが、散策路後半で体力の低下や疲労感のある中で歩くという点では己の体の限界と精神力が試されます。
経塚を出ると一見すると歩きやすい道に見えます。
ですが、ここで「楽勝!」と思った方は慢心という面で注意した方がいいかもしれません。
先ほどの中級編では道の草に気を取られがちでしたが、こちらはご覧の通り……木と沼への道幅がとても狭いです。
さらに左側は草で隠れていますが、少し落差のある岸部でうっかり足を滑らせてしまうとすぐ五郎沼に落ちてしまいます。
しかも結構高いので自力で上がることは大人でも困難を極めます。
こう説明すればこの道も生半可では歩いていけない、ということが理解できたと思います。
それらを踏まえて進んで行きましょう!
歩いていくと木と草の圧力に囲まれ、なかなか軽快に進むことができません。
唯一、救いがあるとするならば近くに国道があるのですぐにそちらに逃れることができる点でしょうか?
沼に落ちるより、道路へ逸れた方が遥かにマシです。
ここまで進むと草は茂みから壁へと変化します。
夏場はこの状況に加え、ここでもジョロウグモの蜘蛛の巣トラップ(しかもかなり大きい)があるので、頭上にも注意しなければなりません。
もちろん、ヘビの出現もありますから足元の注意も……道は一直線ではありますが気は休まりません。
上級散策も後半に差し掛かってくるとようやく沼への滑落の心配がなくなります。
そうして、ほっと一息吐きながら進んで行くと……
民家の近くに一際異彩を放つ白い大きな石が現れました。
この石は『夜泣き石』というもので、ある伝説が伝わっています。
五郎沼は決壊することが多かった。
そのため、村人は水神の怒りを鎮めるために人柱(生贄)を立てることにしたという。
人柱には農家の娘が選ばれ土手に生き埋めにされた。
この碑は村人が人柱とされた娘を供養するために立てたという。
その後、土手の決壊はなくなったが、石の近くを通ると悲しげな娘の泣き声が聞こえ始め、いつしか「夜泣き石」とよばれるようになった。
娘の遺体はその後、大荘厳寺に移されて手厚く葬られたという。
「夜泣き石伝説」から一部付け加え、引用
また、夜泣き石にはこのような伝説も残っています。
佐々木喜善の作品に次のような伝承が採録されている。
五郎沼から掘り出された古碑が土手に放置されていた。
村人が金毘羅塔を建てる際にその古碑を土台石にしようとしたところ古碑は「自分は仏の供養として建てられたが土中に埋められた。沼から掘り出されたが今度は金毘羅石の台石にされたことが残念で堪らない。どうか元の場所に戻して欲しい」と泣きながら訴えた。
地元ではこの板碑を「泣き石」と呼ぶ。
「五郎沼の泣き石」より引用
つまりこの白い大きな石は人柱とされた娘の供養碑、ということになります。
残念ながら人柱にされた娘の名前は分かりませんでした……。
この夜泣き石の名前の由来としてはこの二つの伝説が元となっていますが、時系列から石碑の歴史を考えるとするならば……
①五郎沼を作った際、沼が決壊するため農家の娘が人柱とされ、その供養として石碑が立てられた【夜泣き石伝説】
↓
②地形の変化により石碑が沼の中へ……その後、掘り出された石碑は古碑として土手に放置。金毘羅塔の台石にされそうになった際、泣いて訴え(人柱にされた娘の思念?)、元の場所(現在)に【五郎沼の泣き石】
↓
③徳を積む作善行為の名目として娘の供養のため、経塚が作られる。
↓
④娘の遺体はその後、大荘厳寺へ……
といった背景を思い浮かべてしまいました。
それぞれは独立した物語で、作られた名目や意味もそれぞれ違う形で繋がってはいますが……こう考えても違和感がない、と思うのは私だけでしょうか?
いずれにしても人柱に関わる何らかのことは起きていたと考えられます。
そうして、そんな夜泣き石を過ぎるとすぐにゴールである五郎沼入り口の道路に出ます。
ここまでで五郎沼散策は終了!
沼を一周したこととなります。
時間は約30~40分ほど……運動にはちょうどいい時間と労力です。
これで五郎沼探勝レポートはしゅうry……おっと、申し訳ありません。
肝心な場所の紹介を忘れていました!
古から現代へ……過去から繋ぐ浄土の花
最後は五郎沼に蘇った古代蓮を紹介します。
古代蓮は五郎沼の入り口……駐車場のすぐ隣の一画にあります。
五郎沼自体に植えると水鳥や虫などの関係で保護が難しいので、別の区域に植えられているのだと思われます。
池自体は水もほとんどなく、周囲には板が張り巡らされて気軽に見学することができます。
初夏から盛夏にかけて古代の蓮華は綺麗な花を咲かせます。
泥から生え、泥水を栄養とし……生まれた環境からは考えられないほどの美しさを持つ蓮花は仏教の象徴としてはもちろんのこと、ヒンドゥー教や密教にも様々な意味をもたらし、われわれ日本人にとっては『極楽浄土』のをイメージしやすい花でもあります。
通常の蓮でも生まれが過酷なのに、種が時空を越えて現代で花を咲かせる……歴史のロマン、神秘……いえ、奇跡といっても過言ではないでしょう。
ちなみにこの古代蓮は盛岡市にある生出湧水にも一部株分けがされているそうなので、この場所以外で古代蓮を見たい方はぜひとも、そちらにも足を運んでみてください!
おわりに
五郎沼は平泉ゆかりの地というだけでなく、歴史や自然をくまなく楽しめることが出来るスポットです。
運動にちょっとした探検……ランチや納涼、お花見から白鳥をはじめとした野鳥観察など幅広く楽しむことができます。
ですが、自然が濃いスポットでもありますので、ケガや転落、水難といった事故をはじめ、虫刺されや蛇などには注意していきましょう。